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流し書き18(人生をどれだけ綺麗に生きるかについて)

パリにいた頃とは打って変わって、何をしようかとゆったり迷うような時間も東京という街が僕に押し付けるスケジュールの波に吸い込まれてなくなってしまうようになった。そんな日々の1ページであった今日は朝から仕事をしていて、夕方家に帰ってからは残りの仕事をして、その後日割りの勉強時間を終えてもまだ時間が残っていた。ということで久しぶりに本当の流し書きができる。

いまテーマにしたいと思うのは「人生をどれくらい綺麗に生きるか」という問題である。別の言い方をすれば「どれくらい『意識高い系』で生きるか」「ルールをどれくらい尊重するか」「自分の中に『正義』をどの程度取り入れるのか」とも表せるかもしれない。そういう問題。

世の中にはルールというのをとても大切にして生きている人たちがいる。自分の人生のtrack historyをどれくらい綺麗で正しいものにできるか。人生の1ページ1ページがポートフォリオになっていて、その積み重ねた全体が自分という人間の(主観的あるいは客観的な)価値を決めると強く信じている。想像するに、そういった人たちにとって自分の人生は一つの宝物箱のようなもので、その中に1つ1つ美しい宝石のような思い出を集めていくような感覚で生きているのだろう。コレクション志向というか。例えば、資格を集めたり、ディズニーに行って写真をとったり、プリクラをことあるごとにとったり。宝石箱に入れるのに「ふさわしい」思い出を集めるために、慎重に取捨選択をして生きていく。死ぬ時は、撮り損ねの写真が1枚たりともない完璧なアルバムを天国に持っていきたい。そんな感じの人々がいる。

僕はおそらくそういった人たちとは志向性が少し違う。人生には自己犠牲の経験、苦手な人、クソみたいな出来事が溢れている。それを自分でコントロールすることはできないし、否定することはむしろ身勝手で、拒否しようとすることは可能性から自分を閉ざしてしまう。その中でも経験した出来事が自分という世界にプールされていき、明確な意識下ではない自分の奥底でドロドロに融けあってミックスされて自分という人間の直感的な判断基準になっていく。その基準は自分が決定するものではなくて、自分にやってくる出来事の連続によってuncontrollableに変わっていくものである。僕はその生き方に自由の光を感じている。自分という限界のある存在の限界をプッシュしたいという思いより、自分より外側の全てに対して開かれた感性というものが秘めているクリエイティビティの可能性を信じて、そこを享受しながら生きていきたいと思っている。

そういった自分から見ると、人生を宝石集めのように生きている人は身勝手で閉ざされていると感じてしまう時が往々にしてある。自分の正義を通じて世界を理解しようとしても、それは正義にあてはまらないものに対する身勝手な論理を利用しての拒否、程度の結果になることがまちまちである。そしてそういう人たちは他人を非難するのが好きだ。果たして他人を批判することに何の意味があるだろうか。

例えばこれが国家間の問題や政党間での議論であれば話は違う。ある程度団体としての主張をまとめ、対抗勢力と、言語や論理といったコミュニケーション手段を通じて競うことには意味がある。なぜなら国家や政党は支持者を集める必要があって、そのためには境界のある(definitive)言語を通じて、自分達のスタンスを表明する必要があるから。

ただ、それを個人の人生というスケールにおいても実践することにどれだけの実効的な意味があるだろうか。自分の生き方に必要な支持者は自分だけである。他者は自分の潜在的なサポーターではない。原理的に…

こういうことを流し書きしていると、それは自分に自信がある人間の物言いで、世の中には自分だけでは自分を肯定できない人もたくさんいるんだ、という怒りの声もきこえてくる。そうしたら僕は貝になるしかないのかもしれない….

だって、そういう人が自分を肯定できないように追い込んでしまっているのも、世の中に溢れる「正義を振りかざす人間」たちが生み出している生きにくい社会なような気もしているから...…

批判したいわけではないけれど。ベルクソンが言うように、人間は社会本能として責務の全体を背負って(=義務感、というものを本能的なレベルで当然のものとみなして)生きるように発展してきたのだから、仕方ない。しかし人類が互いに感化しあい、正義感のもたらす快楽からの依存から抜け出せる日はいつかこないのだろうか。

綺麗じゃない文章を流し書きすることは、僕にとっては美しい

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