毎日投稿の卒業フラグ
いろいろ、整理をつけて集中に向かう時期に入っていると感じている。
毎日投稿も、今日を最後に土曜は休み、長期休みもどうしようか考え中だ。
昨日、「緊急ではないが重要なこと」を行うがために毎日投稿をしていると書いたけど、重要なのは表現し続けることであって、このフレーム内で表現することではない。
正直、長期休みや運動会の代休のように、平日かつ子どもが休みの日は、親として要求されることが増えるなか、職業人としての作業量は減るわけではないので、個人的な時間を捻出するのがかなり困難になる。
その個人的な時間のなかで、勉強したいことや形にしたいことを少しずつでも続けていく。
そのためには、「何か」をアウトプットすることは続けるにしても、それが毎日投稿というしばりがあると、他の形でアウトプットをしようとする場合、ダブルですることになる。
結果、毎日投稿でタイムアップになって、ノルマ以上の活動ができなくなってしまうのだ。
これは、まずい。
というわけで、夏休みに向けて毎日投稿は、「毎日何かしらのアウトプット」に修正し、「毎日投稿」という枠を止める方向で調整していこうと思う。
せっかく音声投稿もリズムになってきたところではあるけれど、母親一人で家事と仕事と子どものレジャーを回す夏休みに、どんなにポジティブに見積もっても、音声の毎日投稿は現実的ではない。
そのかわり、毎日何をアウトプットしたかをふりかえられるようにしよう。
家庭人としての自分や子どもの成長を見ていて思うけど、「ずっと続けていく見通し(覚悟)」が固まると、その瞬間その課題は終わりに向かう。
物語もそれを知ってか、
「こんな日がずっと続けばいいのに…」
と言ったらそれは、その平和が崩壊するフラグである。
フラグは回収されるまで、それがフラグであったことには気づかない。
あるいは、戻れない場所まで来て初めて、そのフラグを立てた記憶を回想する。
「おい!そういう死亡フラグっぽいこと言うのやめろw」
と、戻れる時点でフラグに気付いた場合は、それは機能しなくなる。
言葉の魔法は、気づかれた瞬間に解けてしまうからだ。
さあ、昨日のわたしの卒業フラグ投稿。
翌日夕方に気付いてしまったわたしは、卒業に向かうのでしょうか、それとも続けることになるのでしょうか…?
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。