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隠された「前提」をたしかめる方法

「迷ったら、困難な道を選べ」

これは、岡本太郎をはじめ、アインシュタインやカーネル・サンダースなど、著名な偉人の多くが語っている真理らしきもののひとつである。

同時に、

「いやそれやったら詰んだんですけど」

など、被害届が最も多い迷言のひとつでもある(ゆっか独断と偏見調べ)。

なぜ、この真理らしきものが機能しないのか?

それは、偉人たちがこのフレーズの前提として持っている生き方や価値観が、カギカッコの外側に押し出されてしまっているからである。

いわゆる、

「ただし、イケメンに限る」

に代表される、但し書きが抜けているのだ。

では、この迷言から切り落とされてしまった但し書きは何か?

それは、

「ただし、天才に限る」

ではない。

それは、

「ただし、迷っている道はどちらも、同じ目的地を目指していること」

そして、

「その目的地が、成長したいという欲求に呼応していること」

だ。

つまり、「自分が本当に納得できる絵を描きたい」など、自己の成長が達成の条件となるような目的に対して、ふたつの選択肢がある場合にこの迷言は真理として機能する。

一方で、「人並みにつつがなく日々を送りたい」のような願いには、自己の成長よりは分をわきまえて取捨選択することが合理的な道となるため、自己成長のための困難なルート選択は不要だ。

しかも比較する道が、「留学するか」「就職するか」のような、目的地がまるで違う選択肢なら困難さの質も違うわけで、そもそも比較する段階で混乱してしまうだろう。

わたしたちは、自分が普段前提としている生き方や価値観を見ることができない。

憧れているものや、目指しているものは、目を輝かせながら限りなく語れるけれど、それが当たり前になっているものは、もはやそれが自分自身の一部になってしまっているので、語る必要がないどころか、目に入らない。

もしも、だれかの発言が「迷言」だなって思ったら、国語のテストの答案用紙のように、そのカギカッコの手前に何かが入るはず、と思い浮かべてみるといいと思う。

同じように、こうあるべきだと語っているうちは、自分はそれになれていない。

だから、そのメッセージは他人に言っているようでいて、実は自分自身に言い聞かせているのだということも肝に銘じたいと日々思う。

「使ったものは、そのときに片づけなさい」
「やるべきことを片付けてから、好きなことをしなさい」
「時間になったら、イヤでもやめることも必要だよ」

口を開くたび、耳が痛い。

5分どころじゃなく過ぎたので、筆を置きます。



自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。