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暴言やゲンコツより「対話」が子どもへの暴力になるときもあるんじゃないかって話

毒親という言葉はあるが、毒子という言葉はない。

子どもを全員東大に入れたママ!というキャッチフレーズはあるが、両親を年収1000万にした子ども!というキャッチフレーズはない。

子に尽くす親は美談だが、親に尽くす子は社会問題だ。

社会的・政治的には、影響力は常に親から子へと一方的に流れる「べき」ものとして扱われている。

一方で、子どもにも一人の人間としての主義主張があり、尊重される「べき」だという、社会的・政治的なコンセンサスがある。

このふたつの「べき」は、実は矛盾している。

もしそれが、子どもと大人が同じ目線で意見を交わし、それらの両方が反映された意思決定を行う「べき」なら、子どももまた大人と同等の影響力を持つ「べき」ことになり、

影響力は親から子へと一方的に流れる「べき」だという世界観は崩壊してしまうからだ。

そもそもの話、

「べき」

は、そもそもそうあってほしいという願いであって、事実ではないことを仄めかす。

わたしたちは、歳を取ったら細胞の代謝が落ちる「べき」だというコンセンサスに従って老化しないし、赤ちゃんはうんちをもらす「べき」だから、もらすわけじゃない。言われるまでもなく、そうなのだ。

女の子はおとなしくする「べき」だ、と言われるのは、女の子はおとなしくなんかないからだ。

男の子は強くある「べき」だというのは、男の子であるということが強さを保証しないからだ。

この辺は、もう社会的・政治的にも、解放されつつあるが、それは社会で求められる人材が男でも女でも担える種類が充実してきたことと、家事や育児も大半が性別問わず行えることが確認できてきたからだと思う。

これらの「べき」は、社会や政治体制の維持のために、必要な役割を担える個人でいてもらうためにはめる鋳型のようなもので、必要性に応じて、強められたり弱められたりするのだ。

しかし、これだけは外してはならぬと、強力な社会的・政治的コンセンサスがある。

それは、親は子どもを無条件に何よりも大切にする「べき」というものだ。

大人になる前の存在の生活の基盤やセーフティネットは、今の社会にはない。親が子どもを何をよりも大切にしなかったら、子どもを支える存在はいなくなってしまう。だから、親は「べき」が仄めかすように、本当は全ての親がそうでないのだとしても、そうあってもらわなければならないのだ。

この美しい「べき」を支えるためには、「たとえどんな子どもであっても」という前提が必要になるので、子どもは親に影響を与えないことがさらなる前提となる。

もし、子どもが親に影響を与えてしまうなら、子ども次第では、親はそうならない場合もあるよね、という例外が生まれてしまうからだ。

一方、教育の世界では、こちらは社会的に求められる人材の変化から、子どもも社会への発言権を持つようにコンセンサスが塗り替えられた。

子どもたちは、自分は大人に対して対等に意見することができる「べき」という教育のもと、親に対して真正面から要求し、議論して勝つことも可能だと思うようになったのである。

冒頭の通り、このふたつの「べき」は矛盾している。だからぶつかれば大きな葛藤を引き起こす。

そしてその葛藤が起きている現場はどこか。

それは、親のこころであり、家庭である。

子どもの主張する要求は、従来であれば家業や財力など親の能力を超えた主張は、理由を述べることなく「うちは無理」の一言でカタがついた。

それで反抗したら「うるせえ」という親父の暴言とゲンコツで子どもは泣き寝入りして終了。子どもも、クソ親父と思いながら、それ以上訴えても分かってもらえるわけはないから無意味だと退いた。

今はどうか?

まず子どもは、お膳立てされた教育の場での成功体験があるので、自分の意見をちゃんと説明すれば理解してもらえ、「主張が通る」と思っている。通る前提で意見を述べる。

そして対等に話し合うには、情報共有が欠かせない。反対する場合、なぜ無理なのか?の理由を親は求められ、答えなければ子どもは納得しないし、答えても平気で不可能な改善案を出してくる。

親側は暴言も暴力も使えないし、不可能な改善案の実行はできない。意見が通るまで延々と「なぜ」を重ねてくる議論を着地させるには、家計の状態から夫婦関係まで、全て説明しなければならなくなった。

その対話は、最終的にどうなるか。

わがやの不都合な真実をはさんで、引っ込みがつかない子どもと無力感にさいなまれた惨めな大人が睨み合うことになる。

これが、どれほどの苦痛になることか、想像してみてほしい。

親子が全てをオープンに話し合い、お互いが納得できることを決める。

それは本当に可能だろうか?

わたしには、少なくとも留学したいと子どもが提案したときに、「どこにする?」と応じられるレベルの財力を持った恵まれた家庭にしか無理なことだと思われる。

社会がそうであるように、家族経営にも不都合な真実はつきものだ。お金だけじゃない、親族関係や身体能力、病気、性癖、異性関係など上げたらキリがない。

知らずにすめば「クソ親父」「クソババア」で済んだこれらの真実を知ることは、子どもにとって暴言やゲンコツより深く回復困難な傷を与える暴力にならないだろうか?

しかも親は明らかに状況と矛盾しているのに、子どもを無条件に愛して何よりも大事に思っている体で話すのである。

結局、この家族というセーフティネットを守るために作られた「べき」が引き起こす歪みは、親子が困難な状況に置かれた、最悪のタイミングであらわになるのだ。

これは弱者だけの話じゃない。誰もが親か子のどちらかではある以上、全ての人が「だれひとりとりのこさない」状態で巻き込まれている課題だ。

子どもを守るセーフティネットである家族。

それを守るため、ある程度の「べき」は必要ではあると思う。

でも、そうじゃない自分がおかしいのではなく、別にそうじゃないからこそ必要なんだと分かっておくことは、多くの人を少し楽にするのではないかと思っている。

親は、子ども以外のことにもわりと簡単に夢中になるし、子どもと大人じゃ議論にならないことはよくある。

そして、それは別にダメじゃない。だから相手にも、「べき」が完璧に行われることを期待しすぎなければいいだけだ。

そしてちょっとだけお互いに、クソ親父とクソババアでバカ息子でバカ娘だと鼻水噛む程度のテンションで罵り合えばいいと思う。

ふん、わたしだって楽しく日記を書いてるときに、子どもがマイペースに自分でできること頼んできたら、自分でやれよって平気で思うもんね。

どうぞ、クソババアと呼んでくれ。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。