見出し画像

「考える力」は労働者を滅ぼすか

ここ数日、毎日更新をしようとして、途中まで書いて放置で投稿できずを繰り返している。

「どうして?」

それは、今朝予定されていた受講中のプログラムの準備に忙しかったから。

今週末は仕事ができないので、働き溜めをしていたから。

月のものが来ていて、体調がすぐれないから。

毎日更新へのプレッシャーが緩んだから。

これからというところで、子どもの用事ができて中断してしまったから。

ホロスコープでネイタルの太陽とトランジットの土星が0度でコンジャンクションしてるから。

夏の暑さに体がついていけてないから。

冷房で体が冷えたから。

運動不足で体力が落ちているから。

精神が未熟だから。

それが、老化のサインだから。

そもそもそういう人間だから。

そう、わたしが選択したから。

太陽が眩しかったから。

・・・

理由は、無限に生成される。
いくらでも言える。

なにか起きたことに、理由を考えるだけで、何百字と文字が連なり、何時間でも話せる気がする。

哲学の本を読んでいると、それが人間の歴史のようにも思えてくるし、その理由探しの連なりを読んで、さらにその理由を考え始めているのに気づくと、自分がマトリョーシカの一番内側にいるとぼけた顔の人形みたいに思えて、なんだかふとおかしくなってしまう。

人が理由を考えるのは、安心したいからだとか、知的好奇心のためだとか、それ自体の理由探しも止まるところを知らないけれど、その答えがなんであれ、起きたことの理由を考えること=理由探しが人間の娯楽となっていることは、間違いない。

少なくとも、わたしは今、とても楽しい。

わたしを人類に含めていただけるなら、この答えはまず部分的には正しいことが証明されるからだ。正しさを発見すると、それがサンプル数1であっても気分がいい。一銭も支払わずに楽しめる、こんなに心地よい娯楽が、他にあるだろうか?

教育は「考える力を養う」なんて言いながら、考える力を奪っているという争点があるけれど、全人類が「理由を考える」娯楽にハマったら、娯楽にお金はかからないわ、働く意味を考え始めちゃうわで、みんな労働者としての機能が劣化するに違いない。

と書いたところで、自分自身に著しい作業効率の劣化を感じ取ったので、そろそろ娯楽をやめて、仕事に戻ります。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。