「わたしたちはみんなこども」ー #親を救えば子も救える に寄せて
虐待死のニュースを見ると、いたたまれない気持ちになる。
虐待母を叩く言葉の嵐を見ると、もっといたたまれない気持ちになる。
子育てのよく知られた育て方で、こんな言葉がある。
「見守って待つ」「脅したり命令しない」「感情的に怒らない」
難しいけれど、親なら結構その通りだな、って思う瞬間がある、子育ての真実だ。
先日の痛ましい虐待死のニュースを受けて、noteへの支援記事でつながっていたライターの上野郁美さんとDM上で話をした。
起きてしまった事件、失われた命は悲しい。同じ親として、胸が苦しくてやりきれない。
でも、加害者を言葉の棒で殴ってスッキリして、それって虐待を減らす役に立つのかな…?
そんな疑問を語り合った結果、生まれたタグが、
#親を救えば子どもも救える です。
もし、このタグに何か引っかかるもの、あるいは共感を感じるなら、この先を読んでください。
子育てをする親である当事者として、虐待への反応に感じる正直な気持ちと、社会への提案を記します。
お時間を頂戴できたらうれしいです。
子どもを育てているのは「大人」か
わたしたちは、いつの瞬間から「大人」になったんだろう。
いつの間にかした成人。投票用紙や年金手帳で「社会的責任」という意味では、朧げな自覚はあった。
でも「大人」が非可逆的な成長とするなら、その一線を超えた瞬間があるはずなんだけど、
「子どもじみたことを永遠にしなくなった日」をこの日だと言える人はどれくらいいるだろう。
cakesで連載された燃え殻さんの「ボクたちはみんな大人になれなかった」という小説タイトルや、アダルトチルドレンという言葉は、今の親世代の胸に刺さる。
わたしたちは、ちっとも大人になんかなれていない。
現代の大人のボリュームゾーンは、そんなアイデンティティを抱えている。
それは、親であっても同じだ。「母子手帳」と「乳児医療証」で社会的責任は感じても、赤ちゃんに対してひたすらに要望に応えることの繰り返しのリアルに、大人らしく振舞う余裕なんてなかった。
正直に言う。
「親」は「大人」なんかじゃない。
スマホ片手に夕食を作りつつ立ったままチョコを食べるし、読みかけのマンガを後回しにできなくで、洗濯物を干しっぱなしにする。
もちろん立派な親だってたくさんいる。子沢山でありながら菩薩のように穏やかに子を慈しむ母親も、現実に知っている。
でも、少なくともわたしはそうじゃない。
子どもを二人産んでも、大人にはなれなかった。
そして、きっとそれは世界でわたし一人ではない。
「計画」と「リスク」と子育てのリアル
「だったら産むな」「子どもに子どもを育てる資格はない」「無計画な奴の自己責任」「子どもがかわいそう」
その通りだと思う。
でも、育児ストレスや虐待はむしろ親の「計画」があればこそエスカレートする、とも言えると思う。
子どもはぜんっぜん計画通りに育たない。
十人十色だから、100人いたら10人くらいは計画通りに育つ。
でも、9割は計画通りにいかない。
たまたまうまく行った10人は、だからこそ成功体験を声高に語るけど、計画がうまく行くのは、親の理想と子どもの元々の気質が合っていた場合に限られる。
この辺りは9割の企業が起業10年以内に倒産するからこそ増え続けるビジネス書、と同じ理屈だと思う。
病気、ケガ、保育先、仕事、パートナーとの関係…。
これについて産む前に計画の成功を保証できるものはひとつもない。
そもそも産む前に、自分自身が死ぬかもしれない。
誇張ではなくて、本当に。
明日のことは分からないけど、責任はある。
それが子どもが存在する限り、ずっと続く。
それが子育てのリアルだ。
「一人前の親」は無計画とリスクを飲み込んだ人
前に、「子どもを3人以上産んだ母が一人前みたいに言われるのはね、右の手と左の手を二人の子とつないだら、残った一人はつなげないじゃない?つまりコントロールを手放すしかなくなる。3人以上の母が一皮剥けてるのは、その諦めを超えているからなんだよ」という話を聞いたことがある。
子育ては、計画を諦めて、手放すリスクをとってはじめて、一人前。
「一人前」がどういう意味かはよく分からないけど、なんかこの道をゆくぞ!という気概は、できないことを手放すことから生まれる、というのは共感するので、そういうことなのかな、と思った。
これを「覚悟を決める」「腹をくくる」って言い方もできるけど、くくってるかどうかは切腹する瞬間まで本人も分からないからね。
親として前向きに生きるために必要なのは、もう戻れない、手放すしかない、退路はもうないから、リスキーで無計画だけど、この道をゆくのだ!という決意のようなもの、なのかもしれない。
親らしい親ほど「子どもっぽく」見える
とすると、親になっている人は、計画やリスク管理を大事にする「大人らしい」同世代からみたら、きっと子どもっぽく見えるはず。
「計画が足りない」「リスクを考えていない」
ちゃんと計算して安全をとるなら、妊娠計画は中止にするはずだから、まことにおっしゃる通り!だ。
散々「後でどうなるかわかってる?」とか、「こういう風になったらどうするの?」と諭しても、
「だってやりたいんだもん!」
と子どもが我が道を貫くのと同じことを、自己問答の結果、してしまった(あるいは問答すらしてない、する必要を感じていない)人なんだから、
そうでない人たちから見たら、まあ子どもと見ていただいて間違いない。
「子どもが子どもを育てている」
そう思っていただだければ、むしろありがたい。
「親」は「社会」の「子ども」
虐待で二度と幼い命を失いたくない。
それはきっとみんな同じ気持ちだと思う。
その想いにフォーカスするなら、虐待の話が出るたびに親を叩く風潮をなくしたい。
これが私がこの記事に載せた一番の想いだ。
失敗せずに育つ子どもがいないように、失敗せずに育つ親はいない。
ありのままの子どもを受け入れることが大切なら、ありのままの親も受け入れられていいはずだ。
わたしたちが、子育てのなかで気づかされた、見守る大切さや、失敗したときこそ話を聞くことのもたらす効果は、親たちに対してもきっとあると思う。
「親」は家族という制度を作った社会の「子ども」だ。
「父親」「母親」という仮面は、社会から産み落とされた「役」で、役から見たとき、社会は「親」だ。
子どもはいつも、他ならぬ「親」に愛されたがる。
親たちは「社会」に愛されたい。
母親たちは、「社会(親)に認められたい」という思いを抱えているように思う。仕事をして社会復帰したがるのも、きっとその気持ちの表れのひとつだ。
もちろん生活費を稼ぐ意味もあるけれど、今は単にママであるだけでは、親である社会が自分を認めてくれないから、認められたくて社会に出る、そんな側面もあると思う。
この構造、リアルの親子と何が違うだろう?
「親」に怒られるのは誰だって怖い
罰を与えるほど、子どもは嘘をつくようになる。罪を逃れようと、証拠を隠し、バレてしまったら逃げる。
それはきっと、「大人」だってそれは同じだ。
虐待でアザだらけになるレベルなら、強行突破で子どもを保護という道もやむなしかもしれない。
でも、起きてしまった事件を火種にして、「人間じゃない」みたいな、棘だらけの言葉の薪を、火にくべて燃え上がらせることは、未来の虐待を減らすのに、なにか役に立つのだろうか…?
今既に子を叩いていると自覚している親が、燃え盛る加害者の姿に未来の自分を重ねて、相談できなくならないだろうか…?
虐待してると言ったら、自分もボコボコにされる。「信じられない」と軽蔑され、「親の資格もない」と社会的に抹殺される…!
虐待親をディスる会話は、当人同士にとっては、自分がまともな人間であることを伝えるツールや、ストレスのはけ口としては、役に立っているのだろう。
それはたわいのない個人的な交流だ。これが内輪で燃え切るのなら、そんなに害はない。でも今は全てログとして残り、内輪と内輪が接続して、社会に燃え広がる。まさに「火あぶりの刑」。
これは、モンスター級の脅しではないだろうか…?
子どもは「親に」愛されたい
さっきわたしは「親だけど子どもだ」と白状したけど、
もうひとつだけ、正直に告白する。
わたしは子どもを叩いたことがある。
怒鳴ったことがある。
昂ぶる気持ちを抑えられず、子どもを部屋に残して暗闇にこもったことがある。
googleで「虐待」「どこから」と調べたことがある。
全くもって清廉潔白な母ではない。反省すべき点はいっぱいある、というかことにイヤイヤ期を思い出すと、うまく対応できた、と満足した経験なんてほとんどない。
そんな親でも、わたしの子どもは世界一わたしのことが好きだ。
子どもの前で夫婦ゲンカもしたし、悪態をついたこともあるけれど、
子どもたちは父親のことも、同じように世界一大好きだ。
虐待されて亡くなった子どもがそうであったように、
幼い子どもは親を、無条件に愛し、愛されようとし続ける。
そして、それは社会の子どもである、親たちも同じだ。
社会という「親」に認められたいからこそ、虐待の発覚を恐れる。
「ダメな子」と見捨てられるかもしれない、もう許してもらえないかもしれない、
社会の子どもとして、親たちはいつも、その目に怯えている。
「親」を救えば「子ども」も救える
虐待される子を目の前にしたら、その子を親から救ってあげたい。
これは、大人ならみんなきっと思うことだ。私もそう思う。
でも、その子はわたしより自分の親に愛されたほうが幸せになれる。
これも真実だ。
子どもはかわいい。守ってあげるわたしも満たされる。
でも、本当にその子の幸せを思うなら、わたしが抱きしめなければいけないのは、その子の親の方なんじゃないか?
そりゃいきなり抱きつくとかは、ちょっと無理だけど、「大変ですね」って共感の言葉をかけてあげることはできる気がする。
親が安心して、苦しい想いを全部吐き出して、子どもに素直に謝れたなら、親も子も救われるのではないだろうか。
「親を救えば、子も救える」
そう思い、想いをそのまま、タグにした。
まずは救える人からでいいから
一度グレてしまった子を、抱きしめようとしても、もはや拒絶されるように、保護が必要なレベルで虐待を繰り返すようになった親に、この方法は手遅れかもしれない。
でも、
まだそこまで行っていない親を、その手前で止めるために、「子どもを何度か叩いたくらいでは、社会的に抹殺されない」という安心感を作ることは、ひとつの力になると思う。
「ママが笑顔なら子どもも笑顔」
とよくいうけど、「親としての社会」の顔としての他の大人たちが、奮闘する親たちを「ちゃんとできているかどうか」ジャッジするのではなく、笑顔で見守ってくれる、まなざしがひとつでも増えてくれたらと願っている。
「親」=「社会の子ども」への暖かいまなざしを広げたい
長文読んでいただき、本当にありがとうございます。
わたしたちは、親でなくても、さまざまな組織や仕事のなかで、いろんな役を求められています。
どんな役を社会の一員として担おうと、
「役目がちゃんと果たせているのか?」という「親」の厳しいまなざしに怯えている、という点では誰もが同じです。
わたしたちは、みんな同じ、「子ども」なんです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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今日より明日の親子の笑顔が増えることを目指して、私もこのタグで発信します。
よかったら、一緒に考えてくれた上野さんの記事もご覧ください。
親が見守られることで、救われる親子が、一組でも増えることを願って…。
☆上野さんとタグの活用法について音声で対談したnoteはこちら!
「わたし」というゲル状の何かー「#親を救えば子も救える」の使い方https://note.mu/neotenylab/n/nc83dfc5abf14
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。