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「君たちはどう生きるか」は理解できる?見るべき?ストーリーは?への回答

「わかる?」「わからない?」
「見るべき?」「評価は?」
「ストーリーは?」「結局どういう話?」

この映画のタイトルをフックに記事を探している人の多くは、多分見る前の人なんじゃないかと思う。
 
だから、ネタバレはしないけど、
そもそもネタバレってなんだろうか?

見る瞬間の驚きを奪うのがネタバレなら、正直、あらゆる映画はトレーラームービーやポスター時点でネタバレをしている。

今回の映画は、それを一切しなかった。
映画館で照明が落ち、CMが終わり、暗闇に包まれた次の瞬間が全く予期できない。

何が起きるかわからない世界に投げ込まれるあの感覚。

何日も待ち侘びた、でも何を期待していいのかも分からない、自分の現実のタイムラインから切り離された場に身を投げ出す、感覚。

それは、スケジュール帳を片手に、目標を立てて生きる私たちの日常では決して遭遇できない、特別な瞬間だと思う。

映画にしかできないことは何か。

それは、映画を作る人にとって大きなテーマに違いない。

そして、それが分からないからこそたくさんの作家が、自ら映画を作ることによってその問いに挑み続け、たくさんの映画が世に送り出されてきたのだろう。

そうやって、たくさんの映画を送り出してきた82歳と74歳が、まったく広告をしないで、「ただ映画に身を投げ出す」という経験を、観客に贈った。

これは、それを可能にする、唯一無二のキャリアを積み上げた二人にしかできない、この問いへの挑戦ではないだろうか。

そして、こんなギフトを受け取る機会は、見るわたしたちにとっても、二度とないのではないだろうか。

わたしは、映画が好きだ。
頭のなかが、この映画の刺激で溢れてきたものではち切れそうだ。
溢れるたびに、家族と語り、プライベートなノートに書き殴っている。

でも、ここに書く気がしない。
公共の目を意識した感想も、読みたくない。
まだ、読めない。読める気がしない。

なんか、まだ印象の余韻が残っている間は、経験を共にした家族、友達と、思い出話のように、ぽつぽつ語り合いたい、そういう気分なのだ。

子どもの頃、色鉛筆で描かれたカレーから匂いを感じた絵本。

銅版画で描かれたコマを回す少年の絵が好きだった、タイトルすら覚えてない本。

物語で見た風景や印象は、夢のなか、子どもの頃の思い出と混じり合って、意味なんてわからないまま、原風景や原体験のひとつになっているけど、

この映画の情景が、徐々にこの領域に、混じり合って溶けていくのを感じている。

そして、ああこうやって、映画は記憶に染み込んで、気づかないうちに現実を動かし、種となって作家をインスパイアしていくんだなあ、そうされてきたんだなあという印象に浸っている。

そしてまたその印象に刺激されて、映画のシーンへのあたらしい印象が開かれる。経験した瞬間とは、違う印象や見え方が、重なっていく、残響の往復が止まらない。

これが、映画を見終わって2日目の今、わたしの内側で起こっていることだ。

映画は、特定の視点で切り取れば、語ることができる。

アニメに詳しければアニメという切り口で語れるし、作家宮崎駿に詳しければ作家の自伝として語れる。

でも、それは無数にある視点の可能性から選んだ、ひとつの視点で「切り取って」世界を表現したのであって、世界を理解したわけじゃない。

そもそも、物語自体が、表現することを通して、世界はなんであるかという問いに挑もうとする、作家によって切り取られて再構築された世界とも言えるのだから、そこにあるのは問いの軌跡であって、答えではないのだろう。

特定の視点で表現しようという意図を持って写真を撮りながら、まるごと世界を自分視点で「経験する」ことは難しい

これは、わたしが写真を仕事にする人間として、いつも抱えているジレンマだ。

視点を固定して切り取れば、「わかるように表現する」ことはできるけれど、経験という「一回きりの現実」を、「部分的」にしか感じ取れなくなってしまう。

写真を撮るのでなければ、経験は思い出にした後でも切り取れる。

でも、経験そのものは、その瞬間にしかできない。

「わかる?」「わからない?」
「見るべき?」「評価は?」
「ストーリーは?」「結局どういう話?」


だから、これらの質問に答えるのは難しい。

残響がある今はまだ、わかるようでわからないままにしておきたいし、評価やストーリーは「個人的な思い出」として吸収したいから、ジブリ作品としてどうだとか、アニメとしてどう位置づけられるのかとか、客観的な視点を持ち込みたくない

それはもっと、もっと、後になってからのお楽しみだ。

それに、それを言ってしまったら、相手の経験できる世界を、あらかじめ切り取ることになる。

わたしに言えることは、

見た直後に、これらの質問に「答えられる」

ような鑑賞をしたら、もったいないということだ。

なにしろ、わたしたちはいつもそうやってものを見させられ、見られちゃう社会を生きているんだから。

「客観的」という名を借りた、他の誰かの視点を脱ぎ

裸の「わたし」で、

未知しかない、スクリーンの暗闇にダイブする。

そのチャンスにワクワクするなら、ぜひ。


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自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。