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コーチングの盲点を教えてくれるもの

お世話になった人と数年ぶりに、偶然すれ違う。

お互いに気づいて歓声を上げる。

道のりが重なる分だけの時間、近況を交わして別れる。





何かをもらったわけでも、あげたわけでもない。
ましてや社会に価値を作り出し、ニーズに応えて貢献もしてない。
当然ながら、歴史的な影響力はほとんどなにもないだろう。

でも、これ以上しあわせな奇跡があるだろうか?



コーチングには、目標を設定するにあたって重要なキーとなる問いがある。

「人生の究極の目標はなんですか?」
「その目標を達成することは人生全体にどんな意味がありますか?」
「10年後、どんな風景が見たいですか?」
「大切にしたいことはなんですか?」

わたしはこのメソッドに価値を感じているけれど、こうした人生最高のしあわせに満たされるとき、この手の問いはみんな消滅してしまう。

元気な姿を見れた。
何度でも言いたい感謝を、また言える機会に恵まれた。
その再会をお互いによろこべた。

しあわせは追求するものでも掴むものでもない。何かを得ることでも与えることでもない。

そういう心持ちになっている人間にとっての究極の目標は、こういうふうに明日も生きていきたいということだけだ。



コーチングの世界にとって、しあわせな奇跡はスコープ外である。

コーチングがサポートできるのは、自分で手綱を握ることで実現可能なしあわせに限られる。これはもちろん、ティーチングやカウンセリングのような、あらゆる対人支援もそうだ。

これら対人支援はとても役に立つものだけど、しあわせの扱いに関しては、「しあわせは個人でコントロールできるものだ」という箱の中で考えすぎるきらいがある。

だから染まりすぎると、こういう奇跡に「で、その再会はなんの価値を産むの?」というトンチンカンな問いを立ててしまい、感動を感じられなくなってしまう弊害もあると思う。

しあわせは受け取るとき、それ以上に価値なんて産まない。
そんなことを考えていたら、「しあわせ」というモノを「消費」あるいは「資本」として何かに投資してしまう。

しあわせは、人を成長させない。しあわせは、そこに留まることだ。

コーチングは語源が馬車であるように前に進むためのものだから、しあわせに生きようと思ったら、馬車は降りなければいけない。





しあわせな奇跡に浸るとき、コーチングに携わる人間として、馬車は乗り物であって、住処ではないことを忘れずにいたいと思う。

馬車に乗って、前へ前へと住処を移し続けることだけが人生じゃない。

自分がしあわせをより深く感じられる場所に根を下ろして生きることもまた、豊かな生き方なのだ。

わたしは旅が好きだ。定住より遊牧的な生き方がしっくりくる。だから馬車に寝袋を積んで生きる人生なんて、ワクワクするくらいだ。

ただ、この日のしあわせな奇跡のような、しあわせを感じる瞬間には、馬車を降りて草原に寝そべるように、その瞬間を味わい尽くしたい。

「こんな日が人生にあってよかった」
そういう奇跡にパッと手綱を手放し、しっかり両手で受け取れる日々を送りたい。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。