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音声コンテンツへの期待 VS 文字コンテンツへの期待の違い

「なんか」の言い換え、をやってみた今日の収録。

それでも10回くらいは言ってたんですけど、

昨日のChat-GPTで提案してもらったフィラーをいくつか交えてみたところ、

ものによっては2回出てきただけで「けっこう気になるなー」状態になる言葉もあるなか、


「なんか」は意識して聞かないと気づかない無色っぷりを発揮していて、

なんか、「なんか」の万能性、忍者っぷりにあらためて驚かされた。

今日は、収録前に「このことについてしゃべるぞ」と、決めて話し始めたんだけど、

毎回、テーマのあとに説明する「なぜこれが、文字じゃ残せない話なのか」の説明の方がメインの話題みたいになってしまった。

こういう補足が本題を食ってしまうという事件は、頻繁に文字媒体でも起きる。

でも、文字だとこれが、視覚的にすぐ俯瞰できるし、ざっくり切ったり、なんなら順番を入れ替えることだって、わりとサクっとできる(場合によっては立ち行かなくなることもあるけど…)。

これが、音声だとなかなか難しい。

から、えいや!で投稿してしまった。

さあ、恐る恐るの聞きなおしタイム。

その抵抗感を乗り越えるための収録とはいえ、気が重い。

が、あら不思議、

思いのほか、変じゃない…?

もしかしたら、これは私の耳が肥えていないからなのかもしれない。

けれども聞き直すと、そこまで脱線した感じがしないのだ。

これは、どういうことだろう?

ちょっと考えて、今のところ辿り着いたのは、以下のような理由である。

少なくとも、自分にとっては「語り」は脱線するもの、話題は移り変わっていくものだった。

起承転結や、序論本論結論のようなフォーマットを、

わたしは、おそらくそんなに「期待していない」。

そもそもラジオ等、わたしが馴染んできた「プロの」音声コンテンツは、生配信だった。

切り貼りもなく、着地点が見えないまま、リスナーの投稿やゲストとの掛け合いのなかで、予想もつかないところに連れていかれるところに、面白さを感じていた。

一方、本には物語でさえ目次があり、続きがある話なら、あらかじめ「上巻」などと、完結しないことが明示されているのが普通だ。

「あ!残念、締め切りだ〜!いやぁ、最後まで書きたかったけど、ついつい盛り上がっちゃったからさ〜!じゃ、続きは下巻で!」

なんて出版物にはお目にかかったことがない。会ったらある意味前衛的で惚れるかもしれないけど。

なんだろう、

きっとわたしは、音声コンテンツに、どこか即興性のようなものを期待しているのかもしれない。

問題は、それが自分以外の存在、すなわちリスナーがどうか?という話でもあるんだけど。

ああそうか、それがジャンルとかターゲットを考えて見せ方を考えろ、って話になるのかな?

文字も声も、人様によろこんでいただくのって、考えることがいっぱいあるなあ。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。