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のら庭っこ便り#016 2023 9/3-9/24 壱 たしかなこと

毎週日曜日は、のら庭っこ。

なのですが、同時に仲間との畑作業もあり、帰ってからは収穫物を洗って片付けたり、記録をつけたり、なんやかんや忙しく、撮りっぱなしのまま、半年以上が経ってしまいました。

植物にも勢いよく伸びる時期と、ゆっくりと種子を熟させる時期があるように、人間のエネルギー出力にも、ぐんぐん外に放出する時期と、自分の暮らしを整えるためにじわじわ染み出させていくような時期があるようです。

と、いうのは安定した外側への出力が期待される社会人としてはいいわけにしかなりませんが、ようやく振り返って思うのは、写真は残っても、そのとき自分が受け取った印象はもうどこにもない、っていうことです。

たしか、大きくなった分が、白いラインになっているのに、心惹かれて撮った

撮影した直後であれば、まだその印象の残像がある。

何に心惹かれたのか、どういう文脈で撮ったのか。
それに紐づいて、言葉がどんどん降りてくる。

たしか、シカクマメの花

その結びつきが強すぎると、それはそれで書きたいことが散らかるから、ちょっと寝かせるとちょうどよい塩梅になるのだけれど、

たしか、暑さでついに枯れたゴーヤ

さすがにここまで時間が経つと、なにひとつ当時の印象は思い出されません。

たしか、フェンネルか、セリ科の何かの花の綿毛

もちろん、それっぽいことを想像して言葉にできるし、言っているうちにそうだった気分になって、ずっとそう思ってたと思い込むことすらできるんだろうけど、

そうやって「さもありそうな視点」に過去の意味を縫い付けてしまうことは、どこか野暮だなあ、とも思っています。

たしか、生き残りのゴーヤのツルをがんばって紐で導いている様子

というのは、全てが平均の人間がどこにもいないように、「さもありそうな視点」でその場にいた可能性は、たぶんないし、思い出すタイミングによって揺れる過去の意味の観察もまた、愉快だからです。

ここから 9/10

どんな瞬間にも、いろんな意味が隠れていて、イメージ次第で動き続ける未来の「力点」が変われば、今という物理的に固定された「支点」との関係で、光が当たる過去の側面としての「作用点」の意味が変わります。

たしか、なんかの芽

これはわたしの時間感覚ですが、何を言いたいのかというと、どういう未来イメージと今を結びつけるかで、今以後に予定されているストーリーの「伏線」となるように、過去の意味は大いに変わる、ということです。

たしか、一枚目のナスの未来

わたしたちはなんとなく、後から現れた方を、「真の意味」として受け取りがちです。

たしか、甘長トウガラシ

それは「今の自分の視点」がもっとも「たしか」なものだからでしょう。

たしか、春に散々散々抜いたはずなのに、最終的にこんなに育ったキクイモの花

でも、その「たしからしさ」は、移り変わっていく。

たしか、どんどん育つ、ナスの接木の台木。

わたしたちが、日々新しい情報を得て、何かにはたきかけているのなら、自分の中も外も変わるわけで、自分の視点だけがこれ以上動くことがない、はずはないからです。

たしか、なんか生えてたきのこ…?

ネットの発言など、前後の文脈を無視して極端な意味づけがされてしまうなど、意味の揺れは暴力的にはたらくこともあります。

たしかに、計画的に無計画です

ここに掲載している写真も、きれいに管理された立派な圃場の写真と並べ、「無計画な素人圃場の末路」として意味づけすることもできるでしょう。

たしか、この1枚は9/17

だから、意図せぬ解釈がされないように、文脈をはっきりさせ、過去は意味としっかり結びつけるのも、自分を守るのために、今の社会では必要なことなのかもしれません。

たしか、大きくなってきたゴーヤ。ここから9/24

だけど、「のら庭っこ」では、そのような意味との強い結び付けはは今後もしないつもりです。

たしか、ダイコンの芽

この投稿のように、あくまで写真を見たときに、あらわれる言葉を書きます。

たしか、実り出したシカクマメ

わたしにとって、それがカメラだろうがキーボードだろうが、その瞬間の印象を観察することが、「のら庭」でやりたいことだからです。

たしか、収穫期を逃して硬くなった赤いオクラ

タグには自然農とか、パーマカルチャーとか、栽培の参考にしている枠組みを使いつつも、その実践をしているとは明言しない理由もそこにあります。

たしか、前のナスの写真で奥にあった方のナスが大きくなった様子

それらには、理想があり、社会的に意味を持っています。

一方こちらは、社会的意味や役割にフレームされた活動のなかでは果たせない、世界のたしからしさを「観察」する、個人のための営みです。

たしか、異常にくねってきた甘長トウガラシ

プロとして、親として、市民として、存在する時間の大部分を社会の機能のの代理人として過ごすなかで、「ただのヒト」でいられる瞬間は、どれほどあるでしょうか。

たしか、こっちもくねってきたナス

多様性、マルチタスク、多機能、ハイブリッド…、機能の代理人として過ごす社会では、複数の何かを一緒に扱えることが価値になっているようです。

たしか、これもくねってる(左)

役割も、キャリアウーマンであり、妻であり、母であり、ついでに副業として…と、複数を同時に担うことが、増えています。

たしか、苗を植えたそばから食べられているブロッコリーか何か

わたしもそういう、いまどきの大人の一人です。

たしか、蕾をつけ始めたコスモス

だからこそ、ここでは「ただのヒト」として、観察する。

観察したことを、そのまんま置いておく。

たしか、花芽がががつき始めたアオジソ

そしていつか、それをまた未来の別の地点から観察する。いとをかし。

たしか、常に1個ずつ実るトマト

というわけで、半年以上前の写真を見ながら、生えてくるままに言葉を記録しています。

個人的な営みではあるけれど、これを読んでくれた誰かが、役割を脱いで「ただのヒト」でいる時間もアリだよね、とちょっと楽になって、元気になれたらいいな、と思っています。

たしか、ゴーヤ(右)とムクナ豆(左)

これから、また少しずつ過去ののら庭の様子を投稿しようと思います。
次回は、同時期の虫パートです。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。