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自分で作ると食べた気がしない遺伝子

ベランダに、畑に移植する前のセロリと、パクチー、そしてベランダで冬越しして花を咲かせているルッコラがいる。

朝、洗濯物を干すとき、夕方それをしまうとき、それらの葉を一枚ずついただいて順番に口に入れるのが、今いちばん1日で好きな時間だ。

ルッコラの辛味と香りでいっぱいになってそれが去った後、今度はパクチーに包まれ、その味わいのしっぽまでじっくりと見(味)送ったら、最後にセロリを食む。

その彩り豊かな香りのパレードを堪能し尽くす頃には、洗濯仕事も終了。次の仕事へと移るのだけど、これに勝る「いただく満足感」はないと、日々思う。

なんだろう。

わたしにとって「食べる」とは何なのだろうか?

エネルギー供給のために作っている3食より、こうして気ままに口に運んだものの方が、きちんと食べた気がする。

これらを調理したり、仕上げにハーブとしてあしらうより、この食べ方の方がはるかに満足感がある。

母としてもう10年以上食事をずっと作り続けているけど、関心の赴くままに手に取り、純粋にいただく行為に預かる=作らない方が、ちゃんと食べた気がするのだ。

すべては遺伝子、ということが不都合なくらいに分かってきているらしい。

さもありなんというか、なんだか身も蓋もない話だなあと思うけど、台所で働くようになっても相変わらず草を食むことが一番好きな自分を鑑みると、これも遺伝子なのかなあと思った。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。