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自分の時間を生きること、みんなと時間を同期すること
昨日参加したイベントの登壇者の方から参加者に記入を呼びかけられたアンケートが、「集中力」に関するものだった。
集中力。
集中力ってなんだろう。
集中できることでパフォーマンスが上がる。
集中できる環境やルーティン、最適難易度への課題調整のような、集中状態に導くための方法論もそれなりにある。
だから、集中している、していないという主観はそれぞれ微妙に異なっていようと、ほぼほぼ同じ概念として共有できているのだろう。
でも「集中している」とは、そもそもどういう状態なのか。
と、問われるとなかなか難しい。
科学的には、「脳波がα波やθ波になっている状態」ということもできそうだけど、これらの状態にあるときに、必ずしも集中しているわけではない。ただリラックスしている、うとうとしているときも、この状態になるからだ。
それに、日々計測しているわけではないから、言語化されても納得感は薄い。
というわけで、自分の体感を反芻してみることにする。
と、集中しているときって、
「自分の時間を生きている」ときなんじゃないかって思った。
集中しているときは、だいたい時計のことを忘れている。
ただ実際に自分が世界の時間の主導権を握る、なんてことはあり得ないから、集中から覚めたときに青ざめることもあるんだろうけど。
他者と共同作業で集中するときは、メンバー同士が時間を「同期」していて、呼吸を合わせる感じがある。たとえ中身がなくても、まずみんなで集まって、一人一人言葉を話すのは、その集団の時間感覚を同期するのに寄与しているように思う。
写真の仕事のときは、可能な限り1時間以上前に現地あるいは最寄駅入りするが、これも撮影者としての自分、場の時間感覚に同期するために必要な時間だと感じている。
そしてなるべく一緒に仕事に入る人と確認がてら話をするのも、盛り上げるとかミスを防ぐためというよりは、相手と合わせる、「同期をとる」感覚だ。
ケンカしたあとじゃないけど、これは時間と物理的距離でしか解決できないものの一つのように思っている。
リモートだとしっくりこないという人が少なくないのは、この同期がとれなくなることも原因の一つなのかもしれない。
みんな、それぞれ自分の時間のリズムを持っている。
環境も、ルーティンも、適切な作業難易度も、同期が困難なリズムからの影響を排除して、自分のリズムに自分を合わせるためのツールと考えてもしっくりくるように思う。
「中身のない会議に意味はない」と会議自体を無くしたり、アジェンダをぎっしり詰めこむことは、この観点から見ると、集団での集中には逆効果だ。
筋肉にも、瞬発力を発揮する筋肉と持久力に大切な筋肉があるように、思考にも素早く回転し、スパッと決断する思考力と、深く掘り下げ、問い続ける思考力がある。
集団で作業するなら、この両方の筋力に相当する思考力を発揮するメンバーが混じっているのがよいだろうから、その両方が同期できる範囲内にリズムを合わせる必要があるだろう。
みんなの自分の時間で同期が取れているから、そのリズムで作業に没頭しても、お互いが抵抗にならず、集中できる。
個人の話のつもりが、集団の話になってしまった。
集中することと、ひとつの目的に焦点を向け続けることは、また別の課題のようである。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。