霧の街と鏡の少女
夜の街は霧に包まれていた。灯りがぼんやりと滲む中、誰もが家に閉じこもり、通りは静まり返っている。その中を一人、コートの襟を立てながら歩く青年がいた。彼の名はリョウ。
仕事の帰り道、いつも通る通りが今日は妙に不気味だった。理由はわからない。ただ、いつもとは違う何かが街を覆っているように感じた。
「…あれ?」
ふと、リョウの目に奇妙なものが映った。曲がり角に、小さな骨董屋が現れていたのだ。この道を毎日通っていたはずなのに、そんな店は今まで見たことがない。好奇心が彼を突き動かした。
ドアを開けると、カラン、とベルの音が響いた。店内は薄暗く、古びた本や壺、鏡などが所狭しと並んでいる。その中で、一枚の鏡がリョウの目を引いた。大きな古びた額縁に、まるで霧がかかっているかのように曇った鏡。
「おや、気になるのかね?」
突然、後ろから声がした。振り返ると、白髪の老人がカウンターの奥からゆっくりと現れた。
「これは特別な鏡だよ。ただの鏡じゃない。」
リョウは眉をひそめた。「どういう意味ですか?」
老人は笑みを浮かべながら言った。「この鏡は、見る者の"本当の姿"を映し出すんだ。」
その言葉に、リョウの胸の奥で何かが動いた。彼は手を伸ばし、鏡に触れた。瞬間、鏡に映る自分の姿が揺れ、変わり始めた。次の瞬間、そこに立っていたのは少女だった。
――見知らぬ、美しい少女。
その瞳は深い悲しみを宿していた。リョウは息を呑んだ。
「これが…僕?」
鏡に映る少女は、リョウの心の奥底に封じ込められた何かを映し出しているようだった。彼は目を背けようとしたが、動けなかった。
「逃げられないよ。」老人の声が、やけに響く。「その姿が、君の本当の姿だからね。」
リョウは鏡の中の少女に目を凝らす。彼女の唇がわずかに動いた。
「助けて…」
リョウの胸に重い痛みが走った。この少女は、自分自身のもう一つの側面――失われた感情、見て見ぬふりをしてきた真実。彼は震える手で鏡を撫でた。
「僕は…どうすればいいんだ?」
少女の目には涙が浮かんでいた。「私を――」
次の瞬間、霧が一層濃くなり、店内が揺らめいた。鏡の中の少女の姿が、リョウの体を包み込むように溶け込み、彼は深い闇の中に落ちていった。
目が覚めたとき、リョウは自分のベッドにいた。鏡はない。あの店も、霧も消えていた。しかし、リョウの胸には何かが残っていた。失われた何かを取り戻したような感覚。
彼はもう一度、世界を見つめ直すために立ち上がった。霧の向こうに、真実の自分が待っているかのように。
彼はもう一度、世界を見つめ直すために立ち上がった。霧の向こうに、真実の自分が待っているかのように。
その日から、リョウの日常は少しずつ変わり始めた。仕事への向き合い方、人々との接し方、そして何より、自分自身への態度が変化していった。
ある日、リョウは久しぶりに夜の街を歩いていた。霧が立ち込めているのは、あの夜と同じだった。しかし今回、彼は霧を恐れなかった。むしろ、その中に何かを求めているかのようだった。
そして、あの曲がり角に来たとき、リョウは足を止めた。そこには、あの骨董屋があった。躊躇なく、彼は店に入った。
「お待ちしておりました」老人の声が聞こえた。
リョウは静かに頷き、あの鏡の前に立った。鏡の中に映ったのは、もはや見知らぬ少女ではなく、リョウ自身の姿だった。しかし、その目には以前とは違う光が宿っていた。
「わかったんですね」老人が言った。「あなたの中にいた"彼女"を受け入れたんですね」
リョウは微笑んだ。「はい。彼女は...僕自身だったんです。失っていた感受性や、隠していた優しさ。それらを取り戻すことができました」
老人は満足そうに頷いた。「さあ、これからどうする?」
リョウは深く息を吐いた。「まだ旅の途中です。でも、もう迷うことはありません。自分の内なる声に耳を傾け、真の自分を生きていきます」
その時、店内に柔らかな光が満ちた。リョウが振り返ると、老人の姿は消えていた。代わりに、ドアが開いていた。
外に出ると、霧は晴れ、星空が広がっていた。リョウは胸を張って歩き出した。彼の歩みは確かで、目には決意の色が浮かんでいた。
街灯の下で、リョウは立ち止まった。そこには一人の少女が立っていた。彼女はリョウを見て微笑んだ。その笑顔は、鏡の中で見た少女のものと同じだった。
リョウは少女に近づき、優しく手を差し伸べた。「一緒に歩きませんか?」
少女は頷き、リョウの手を取った。二人は寄り添いながら、新しい朝に向かって歩き出した。霧の街は、二人の背後で静かに消えていった。
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