「なぜ人を殺してはいけないのか」問題の個人的な所感

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」は昔からよく語られる問題である。
専ら、思春期の子供たちが特に解を求めるわけでもなく、その提起をする自分自身に酔いしれて発言する為に「中二病乙」と一蹴されることも多い。

 一蹴される故に、あまり適切な回答らしいものもあまりないように思えるがよく言われるのは以下の言説である。

①殺人を肯定したら、自身が殺されることも容認しなければならない

②別に殺してはいけないわけではない。法的制裁を恐れなければやってもいい。

③社会秩序の維持の為に殺人は容認できない。


 ①に関しては社会契約説に則った考え方をしている。
 社会契約説とは、大雑把に説明すると「どのように国家が成立するのか」を考えた理論である。もともと国なんてなければ法律も無いし、真の意味で自由である。誰を殺してもいいし、何を奪ってもいい。こうした国家が成立する前の、社会的秩序が全くない状態を自然状態と呼ぶ。
 自然状態でも人間は生きたいという意思は持っている。この個人が生きたいという思いを自己保存権という。しかし自然状態は何をやっても良い世界。人を殺す権利もあるし、物を盗む権利もある、全てが肯定される世界だ。殺す側の「人を殺す権利」と殺される側の生きたいという「自己保存権」、この相反する権利がが衝突を起こす事も珍しくない。これを思想家のホッブスは「万人の万人に対する闘争状態」と呼んだ。無理もない、周りの人間は「人を殺す権利」をいつ、誰に使おうかとウズウズしながら考えている。そして自分はいつ「自己保存権」を脅かされるか怯えながら生きている。正に家族だろうが恋人だろうがいつ敵になってもおかしくない緊張状態の世界。それこそがホッブスが定義した自然状態の状況である。

 つまり、①の言説に立てば人を殺すことを容認した場合、社会秩序が機能しなくなる自然状態に突入し、自身の身の回りが敵だらけになる『万人の万人に対する闘争状態』に突入する為に認められない、と言っているのである。必然的に③の説もこれに一致する。
 これに対して②の言説がなかなかに特異的である。殺人などの犯罪に対する社会的制裁を必要経費(コスト)として考え、もしもそのコストを殺人によって得られる恩恵が上回った場合には、犯罪行為を発動できるという非常に功利主義的な考え方である。ただこれに関しては、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いの枠外ににある結論なのでなんとも言えない。ただ、このSNSなどの情報網が良い意味でも悪い意味でも発達しているこの昨今、犯罪に対する必要経費を量刑のみで考えるのは思慮が浅いと言わざるを得ない。予測不可能なネット上での個人情報公開、風評被害、その他諸々。正確な概算不可能なリスクが蔓延している昨今、真の功利主義者であればそんなリスクは犯さないだろうとさえ思う。

 正直、①と③の社会契約説で終わっている議題だとは思うが、個人的な所感として別の理由も存在する。それは「人を殺した場合、それがクセになるから」である。
 例えばの話、ムカつく上司がいたとしよう。ムカつく上司の対処法としては、ICレコーダーで発言を記録し更に上の上司にパワハラの事実があると告発したり、労働基準監督署に駆け込んだり、あるいは怒りの意を露にして問題行為をやめるように怒鳴りつけるという方法もあるかもしれない。しかし、人を殺した事のある人間はこの問題解決の方法の中に「上司を殺す」という選択肢が常に入るようになる。
 例えば②の言説に立って、人を殺すことで巨万の富を得た人間がいたとしよう。犯罪を犯したものの不起訴処分で無罪放免、リスクも受けずに利益だけを手にしたとする。こうした場合、人間は上手くいった手法を妄信的に信じるようになる。即ち人を殺す事は即効性がある効率的な素晴らしい手法であると誤認する。だから一度人を殺してそれに成功してしまった人間は、常に問題解決の選択肢として人を殺すことを考えるようになる。ムカつく上司を前にしても「こいつを殺せばみんな喜ぶし、それが手っ取り早いな」とか「こっちは人を殺してるんだぞ、お前よりも俺の方が上なんだ」という鬱屈とした反倫理的な思想が常態化する可能性が高い。それはもはや社会にとっては怪物である。だからこそ、人を殺してはいけない。怪物になってしまうから。人を殺すという選択肢を恒常的に考える人間で世界が溢れた時、それは「万人に対する闘争状態」と変わらなくなる。

 もちろん全ての殺人の経験をした人間がそうだというわけではない。しっかりと裁きを受け、罪の重さを自覚して更生の為に生きている人間もいるし、軍人が自国の防衛の為にやむなく人を殺したという例もあるだろう。こうした人々が今回の論に当てはまらないのは自明である。ただ、人を殺しておいて裁きを受けずに利益のみを手に入れた時、そうした後悔や罪悪感を抱き続けることができる人間ばかりではない。怪物発生のリスクとなる殺人は根本から禁止するに限る。だからこそ「人は殺してはいけない」。

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