無知とリンゴとバナナ


 二十数年生きてきて自分が食品アレルギー持ちであると初めて気づいた。

 事の始まりはリンゴを食べた時のことである。
大雑把に4等分したリンゴを皮ごと食べていたら、食べ終わったあたりで強い吐き気に襲われた。前々からリンゴやキュウリを多めに食べた時には吐き気を催す事は多々あったが、青臭さにやられてしまったのだろう程度に考えていた。

 不意に、「リンゴを食べて気持ち悪くなるのは私だけなのだろうか?」という疑問が浮かんだ。軽い気持ちで検索エンジンに「りんご 食べる 気持ち悪い」で検索したところ、某知恵袋や国立の研究機関のホームページなどでも話題にしているようで驚いた。
 調べてみると果物アレルギーというものらしい。花粉症の人間が果物を食べた際に、その花粉と組成が似ている果物を食べてしまった際にアレルギー症状が出るというものだ。いくつか系統は分れているようだが、リンゴで症状が起こる場合は「バラ科の果物アレルギー」に分類される。「メロンを食べると喉が痒くなる」という人の話を良く聞くが、この症状が正に果物アレルギーに当てはまる。
 つまり私は吐き気というアレルギー症状を一過性のものと勘違いして人生を積み重ねてきたという訳だ。味合う必要のない苦しみを無知であるが故にいたずらに味わい続けた。

 問題を問題ではないと誤解して大きな不幸になる話はよくある。身体の違和感を気に留めなかったせいで、大病が潜んでいる事に気づかず命を落とす、なんてことは珍しくない。そこまでの大ごとではないにしろ、今回は細かな違和感の正体を知ろうと行動に移したことで功を奏することが出来た。知は力なり。

 一方、「無知は幸福である」という様な言説がある。
 例えば、贅沢を知らない庶民は毎日をパンとシチューで幸せに生きていけるだろう。しかし、貴族が食べる極上の肉と酒の味を知ってしまったら、もういつも通りの生活に甘んじることはできない。今まではシチューとパンで満足できており疑問すら抱かなかったが、もっと良いものがあることを知ってしまったが故に、満たされない不幸を背負いながら生きることになる。だから、無知のまま広い世界を知らずに生きる方が幸福なのだ、という様な考え方だ。今までは賛成していたが、私は今回の件でこれは間違いだと思うようになった。

 まず、無知の状態でも不便は必ず感じるという事である。
アレルギーだと知らなかったからプラシーボ効果で症状が出なかったという訳でもない。毎回、リンゴを食べたら気持ち悪くなる。むしろ問題意識を抱かなかったせいで結果としていたずらに不幸にしがみついていたとさえ言える。
 もちろん、知ることで生まれる不幸が全くないとは思わない。余命を宣告されて楽しく残りの人生を生きられるか、と聞かれれば難しい。ただ、その情報を知らなかったとしても死に際に「あれをやっておけばよかった」と後悔をするだろう。自発的に何かを選択するイニシアチブを持てる点で、無知よりは知っている状態の方が断然良い。
 無知でも不便は必ず感じている。炊飯器を知らずに未だにかまどで米を炊く人間が、「お米炊くのに数時間かかるけど不満が全くないです」と言うはずがないのである。諦めの念から「まあ慣れちゃったし」という事はあっても、数分の下準備で米が炊ける炊飯器を無料で渡しますと言われたら、まず間違いなく欲しがる。シチューとパンだけで生きている庶民だって「なんか味が飽きてきたな」と不満は必ず感じている。無知は所詮、問題と解決策が見えていない所為で身動きが出来ないだけであり、幸福でもなんでもない。

 そんな事を考えながらバナナを食べたら喉の奥と耳が無性に痒くなり、リンゴと比べ物にならない苦しみが私を襲った。どうやらバナナもダメらしい。私は失意の中、「そんなバナナ……」と呟いた。食べかけのバナナは相変わらず憎たらしいくらいに黄色だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?