映画を観た日「ほんとうに大切なことは心で見るんだ」
今日は一日、ただただ映画を観ました。
映画館で、ではなく、家で。
4月1日だからといって特別なことはなく、仕事もなかった。
3時間半しか眠れなかったから、昼寝したかったけれど、眠気が来ず。
睡眠不足だと、免疫力が下がるので、どうにか寝ようと抗不安薬の頓服を、少量飲んでみるも、結局眠れず。
眠れたら、ウォーキングに行きたかったのだけど。
ただただドラマや映画を観ていました。
こんな日は久しぶり。
一日中、家にいる日はあっても、体調が優れず、ドラマや映画を観る気持ちには、ならなかったから。
でも今日は、なんとなく観始めた。
最初に観たのは『博士の愛した数式』という映画。
(一切ネタバレされたくない方、ここから先は、読まないことをお勧めします)
タイトルは知っていて、観てみたいなと思っていたけれど、これまで観たことがなかった。
春のような、あたたかい映画。
時間が経ったら、もう一度観たいなと思う映画だった。
「ほんとうに大切なことは、心で見るんだ」
そんな言葉に、私の心が動いたのを感じた。
他にも、博士が教えてくれることは、あたたかく、特に、線のくだりは忘れたくない。
そのあとには、なぜか、ドラマ『ランチの女王』の最終話だけを観た。
昔、観たことがあるけれど、なんとなく今日、観たくなって観た。
そうしたら、今日4月1日は、主演の竹内結子さんの誕生日だった。ビックリした。存命であれば、44歳。
4月1日。私にとっては、何もない日でも、誰かにとっては特別な日だった。
竹内結子さんは、女性として憧れるくらい、笑顔が素敵で、可愛い。見ているだけで癒される。
憧れの女性を見ると、元気が出る。少しでも素敵な女性に近づきたいという気持ちが湧いてきて、イキイキとした気持ちになる。
そのあとは、バカリズムが脚本を手掛ける『ノンレムの窓』という番組を観た。ショートドラマで、過去作を含めると何本かある。(バカリズム脚本ではないものもある)
そのなかでも、2023・冬の『野崎さんの夢』というドラマが面白かった。
(ここから多少のネタバレあり)
承認欲求は、誰にでもあると思う。
ちょうど、SNSについて考えていたところだったので、余計に面白かったのかもしれない。
以前「旦那さんと話すだけで十分だから、SNSをやる意味がわからない」と言っていた人がいた。ドラマを観て、そのことを思い出した。
では、SNSをやっていない人は、承認欲求がないのか?そんなことはないと思う。
その人は、旦那さんに話すことで、承認欲求を満たしている。
みんな、多かれ少なかれ、承認欲求はあると思う。
SNSをやっている場合は、ほぼほぼ承認欲求があると思う。
じゃなきゃ、その辺のノートに書いておけばいい。
わざわざ、ネットの波に乗ったnoteに書くことはない。
ということで、承認欲求があることは、ある意味、発信することや表現のエネルギーになるということを、面白おかしく伝えてくれたドラマだった。
そのあとは、何を観ようか迷って迷った。
でも、映画を観たい気分であることはわかっていた。
『博士の愛した数式』を観て、なにか心で感じたいと思ったからだ。
心で感じられることには、どんなことがあるだろう。
自然に触れるのもいいかもしれない。
音楽を聴くのもいいだろうし、絵画など、芸術作品に触れるのもいいかもしれない。
私は今日は、映画がいいと思った。
そして『マイ・ブロークン・マリコ』という映画を観ることにした。
最近『君が心をくれたから』というドラマに出演し、素晴らしい演技で魅せてくれた、永野芽郁さんが主演。
ここから、ネタバレを含みます。
そして、人によっては、気持ちが暗くなるかもしれませんので注意してください。
タイトルにもなっている、マリコ役には、奈緒さん。
奈緒さんは、ドラマ『あなたの番です』で、ブレイクした俳優さんだと思う。
永野芽郁ちゃんの演技もよかったけれど、奈緒さんの演技は、ほんとうにマリコという人間が存在しているかのようだった。
内容的には、決して明るくはなく、目を背けたくなる場面もあった。
映画のなかで、マリコの父親が、マリコを虐待する。それはもう、毒親を通り越して、犯罪だ。マリコの父親と比べたら、私の父はものすごく優しい父だと思う。
映画を観ていて、父親役の尾美としのりさんが、ほんとうに憎くなるくらいだったので、俳優さんってすごいなと思った。優しいお父さん役のときは、ほんとうに優しそうだし、同じ人とは思えない。
タイトルに「ブロークン」と、ある通り、マリコはぶっ壊れてしまう。
永野芽郁ちゃん演じるシィちゃんが、ぶっ壊れた親友マリコの遺骨とともに、旅に出るお話だ。
私は、マリコみたいな虐待を受けたことはないし、マリコほど、ぶっ壊れたこともない。きっと、あんな虐待を受けていたら、生きるのは苦しいだろうと想像した。
けれど、この世界のどこかでは、今この瞬間も、映画のなかのマリコのように、虐待を受けている子どもがいるのだろう。想像すると、胸が苦しい。
『マイ・ブロークン・マリコ』は、きっとシィちゃんが主人公で、マリコが主人公ではないのだけど、親友のシィちゃんを通して、マリコの存在をしっかりと感じる映画になっていた。
マリコは、ぶっ壊れていて、危うくて、見ていて痛々しい。
けれど、その命の輝きは、決して失われていなかった。
どんな命も美しい。
ただ、そう言えるのは、映画として観ているからで、現実では、そんなふうに思えないだろう。苦しくて苦しくて、しょうがないだろう。
それでも、いや、心で感じたままに表現はできないが、この映画を観て、心の奥の奥底で感じたことがあったのは間違いない。
心で見たもの、感じたことを、いかに言葉で表現するか。というのが、モノカキの命題のように思うが、心の奥の奥の奥の方で感じたことは、自分自身でさえわからない。
けれど、たしかに心の深いところで、何かを感じていたことはわかる。
その、心で感じたこと、心で見たものが、私の血肉となり、いつか目に見えるものとして現れるかもしれない。
『博士の愛した数式』のなかで、博士が「目に見えない世界が、目に見える世界を支えている」というようなことを言っていた。
目に見えるものと、見えないもの。
この世界には、どちらもある。
それなのに今、私は、目に見えるものだけに囚われていないか?
マリコとシィちゃんのように、表面上は痛々しい関係でも、そこには目には見えない何かがある気がした。
最近の社会は、人と関わるのを避ける風潮があるように、私は感じている。(あくまでも、私は)
SNSが普及し、表面上の関わりが増え、ボタン一つで簡単につながることができるし、ボタン一つで簡単に縁も切れてしまう時代。
自分がほんとうに辛いとき、そばにいてくれる人は、果たして、どのくらいいるだろうか?
みんな、自分のことで精一杯だ。
それでもこうして、映画という目に見えるものから、目には見えない大切なことが見られる映画を作ってくれた人がいる。
だから、私は映画が好きだ。
私が書くこの文章も、そんな、映画のようなものであるといいなと思った。
博士が愛した数式ほど、美しくはないけれど。
ねねこ
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