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平将門の首を持って江戸を出たAさんと検死のため京都を出たBさんが落ちあう宿場町【歩いて目指せ日本橋 10日目】

この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たいと思い立った人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅しようと試みた18日間の記録です。

【ルール】

①東海道上に設けられた53の宿場町を通り、京都三条大橋から東京日本橋を徒歩で旅する。
②通行止めなど余程の理由がない限り、「東海道」以外の道を歩くことは禁止。道を間違えた場合は、間違えた地点まで戻って歩き直す。
③移動手段は基本徒歩。徒歩で渡れない三重〜愛知間の移動のみ電車OK。
④各宿場町では、歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」と同じ構図で写真を撮る。


【前回の記事】

遠江国・浜松宿(静岡県浜松市)

さむい!!!


おはようございます。こちらは浜松宿です。
浜松といえば、大河でもお馴染み・徳川家康が、29歳から17年間拠点とした土地です。
浜松城は「家康の出世城」、浜松のゆるキャラは「出世大名家康くん」と、家康はここで出世したんやぞと大々的にアピールしています。
出世大名家康くんは口の位置がややこしくて面白いです。


浜松城とその他家康ゆかりの史跡は、秋以降に大河ドラマ巡礼旅をする際に見に行くので、今回はスルーします。。。岡崎といい家康ゆかりの場所をことごとくスルーしていて申し訳ないです。。。
本日は、浜松から見附、袋井を通って掛川まで向かいます。東海道五十三次の半分以上を占める静岡の宿場町巡りを楽しみます。

金原明善の家

立派な家だと思ったら


初めに見つけたのは「金原明善(きんぱらめいぜん)」なる人の資料館です。金原さん、ご存知ですか?恥ずかしながら関西出身の私は金原と聞くと吉本新喜劇の金原早苗さんしか思い浮かばなかったのですが、キンパラメイゼンさんは静岡/浜松出身の方の中では有名人なのでしょうか?
【参考】関西の誇りの金原さん


こっちは浜松の誇りの金原さん


金原さんは、これから渡る「天竜川」の治水工事に取り組んだ、明治の実業家・社会事業家です。天竜川は、長野、愛知、静岡の3県を通り太平洋へと流れる川で、日本史上度々水害を引き起こしたことから、「暴れ天竜」と呼ばれていました。国土交通省のサイトでは天竜川の水害の歴史がまとめられていますが、最古の記録が701年(平城京遷都よりも前ですね。。。)と、1000年以上にわたり人々が天竜川の水害に苦しんできたことが分かります。


これに対し、私財をなげうち治水工事に取り組んだのが、この金原明善さんです。治水工事以外にも、植林に罪人の更生と浜松に尽くした浜松の名士です。築200年の彼の屋敷は、彼の生涯と功績を紹介する資料館として修復、公開されています。
元受刑者の更生など社会福祉事業にも積極的だったことから、館内のVTRでは「川のみならず罪の洪水も止めた金原明善」みたいな呼び方をされていて、なんかツボりました。

天竜川
かつての暴れ天竜も穏やかでした。ただ空っ風が強かった・・・。
ミラクルパワー街道(ロード)
ゴリゴリの巫女衣装なのに名前が寺なのが神仏習合の国JAPANらしいですね。
中野町銀行跡
写真を見返していたら「誤写??」と思って消しかけましたが、明治に建てられた銀行の跡地を撮ったみたいです。レンガだけ残ってます。

遠江国・見附宿(静岡県磐田市)

見附宿に着きました。
遠州の主要拠点といえば真っ先に連想されるのは浜松ですが、平安時代、鎌倉時代においてはここ見附に遠州の国府が置かれていました。また、見附の名前の由来は諸説ありますが、京都側から来た旅人が初めて富士山を「見」る地域であるから「見附」という説もあるそうです。あいにく富士山は見られませんでした・・・。

旧見附学校


1872年の学制公布の3年後、1875年に建てられた小学校で、現存する日本最古の「擬洋風」小学校校舎です。東海道の中でも数少ない、写真映えする建造物です。
本場の西洋建築は石造りが基本なのに対し、こちらの「擬洋風」建築は木造なのが特徴です。明治の東京では、お雇い外国人を招いて様々な西洋建築が建てられましたが、他の地域には、西洋建築のノウハウが十分に広まっていませんでした。そこで、木造建築ならプロ中のプロな大工さん達は、錦絵や写真をたよりに、見よう見まねで木造の西洋建築を作りました。実際の西洋建築のいろはをふまえたものではないので、「擬」洋風というわけです。
思えば肉じゃがも、イギリスで食べたビーフシチューをもう一度食べたかった東郷平八郎に「芋、人参、玉ねぎ、牛肉を煮込んだ茶色い料理なんだけど、作れる?」と言われた料理人が、茶色の部分をダシ・醤油と解釈して作ったものがルーツだと聞いたことがあります。ちょっと例が違いますかね???

校舎の中には当時の学校の様子や宿場町時代の見附のジオラマなどの展示がありました。
朝ドラでたまに見るテイストの教室だ

許禰(きね)神社/木原畷

徳川家康と武田信玄が戦った「三方原の戦い」の前哨戦があった辺りです。家康が腰掛けたであろう石が残っていました。腰掛け石ってどこまで本当なんですかね・・・。

遠江国・袋井宿(静岡県袋井市)

どまんなか袋井

江戸、京都双方から数えて27番目、つまり東海道のちょうど真ん中にあたる宿場町です。街のあちこちで「東海道どまん中」アピールしていました。果てしなく思えた東海道の旅もなんとか半分まで来たのだと思うと泣けてきます。まだ難所は沢山あるんですけども・・・。
見附とこの次に行く掛川の間の距離が長かったので、後から足された宿場町だそうです。確かに見附〜掛川は15キロと長く、ぶっ続けで歩くには中々モチベも保てないので、私も江戸時代の役人なら同じ判断をすると思います。

澤野医院

横に長いのでパノラマ撮影


江戸末期〜昭和初期まで使われていた病院です。無料で見学できるのですが、当時の手術台やレントゲン室がそのまま残されていて、見応えあります。静岡に入ってから無料で見学できる昔の建築が多いので、ジリ貧金無しな旅人は大いに助かっています。

東本陣公園

あいにく袋井は宿場町時代の建物が残っていないのですが、本陣(VIP用高級ホテル)の間取りを石で表した公園がありました。

「ど真ん中」の宿場町を経たので、ここからは折り返しです。後半戦1つめの宿場町かつ本日のゴールの掛川を目指して9.5キロ歩きます。 



冬で日照時間が短いこともありますが、残り9.5キロも歩かないといけないのに既に暗くなり始めているのがゴリゴリにメンタルを削ってきます。ひとまず掛川に入ったぞ・・・。

遠江国・掛川宿(静岡県掛川市)

血洗川

暗いよ・・・

掛川に着きましたが笑っちゃうぐらい真っ暗です。こんな暗闇の中で一番来たくないところに来ました。平将門と彼の家臣19人の首を洗ったといわれる「血洗川」です。一度首を洗っただけで1000年間「血洗川」と名前で呼ばれ続ける川はどんな気持ちなんでしょう。
「血洗」といえば、かの渋沢栄一の故郷も「血洗島」でしたね。東海道のような何の変哲もない名前の道をミラクルパワー街道(ロード)と呼ぶ一方で、血洗川はそのままなんだ・・・と思いました。
将門の終焉の地は東京ですが、首実験を行う京都の役人チームと関東で首を回収したチームが落ち合ったのがここ掛川でした。もし算数の問題で「Aさんは将門の首を持って江戸から、Bさんは首を確認するために京都から、それぞれ出発しました。2人が落ちあうのはどこでしょうか?」という問題がでたら、「かけがわ」と書けば花丸がもらえるはずです。

首塚もありました


掛川城

東海道の旅は基本城に近寄れないということが分かりました。今回もちっこい城の写真で失礼します・・・。


掛川は内助の功で有名な(ひどい代名詞)戦国武将、山内一豊が整備した城下町です。奥にかろうじて見えるお城は、京都の聚楽第や大坂城を真似した、当時の感覚からすれば最先端イケイケのデザインで、かつ日本で初めて本格「木造」で復元された天守閣だそうです。
掛川は宿場町の私娼・飯盛女を置かなかったそうで、ゆえに前々回の吉田、赤坂、御油らへんが余計に栄えたのかもしれないですね。。

この日は掛川のホテルに宿泊しました。無料でビールとカレーが提供される最高なホテルでした・・・。

次回は掛川を出て、日坂、金谷、島田、藤枝に行きます。東海道三大難所の1つ・小夜の中山や「箱根八里は馬でも行くが、越すに越されぬ大井川」と謳われた大井川など、後半戦早々東国の洗礼を受けることになります。また読んでくださると嬉しいです!

寧々


【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るチャレンジ

浜松
見附
天竜川とセット
袋井


静岡県の横の長さを痛感している


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