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トルストイの日露戦争論/「汝ら悔い改めよ」 第十二章

第十二章

 以上の稿を発送せる時、予は恰[あたか]も恐るべき新報を接手[せっしゅ]せり、开[そ]は彼[か]の軍隊統率の任に在りて権力を専[もっぱ]らにせる軽佻[けいちょう]なる人々が、新[あらた]に露国人民に対して行える不正なり、彼の燦爛たる諸種の服装を纏いながら、陋劣卑屈なる奴隷中の奴隷──即ち彼等幾多の将校は、自家の功名[こうめい]を希[こいねが]うが為[ため]めに若くば互いに相陷済[あいかんざい]せんが為めに、或は其馬鹿げたる盛装の上に更に一個の勲章綬章を加えんが為めに、否[しか]らざれば即ち其愚妄若くは怠慢なるが為めに──是等の憫笑[びんしょう]すべき価値なき人物は又もや彼等を養える尊敬すべき親切なる勤勉なる労働者の数千人を塗炭の中に陷[おちい]らしめたる也、而も是等の不正は、啻[ただ]に其[この]責任者を反省悔悟せしむるに足らざるのみならず、却って之が為に更に多数の日露両国人民を戕害[しょうがい]殺戮し、更に多数の家族を零落せしむるの急要なるを呌[さけ]ぶに至る

 甚しきは即ち是等罪悪の執行者が、今後益々[ますます]此種の不正を行うの準備として、其人員を召集せんが為には、何人[なにびと]にも明白なる事実(如何に愛国的軍国的意見より見るも今回の事件が大失敗なるは露国人皆な之を知れり)を承認せざるのみならず、却って是等の不幸なる人民(其数千人は宛[さな]がら屠獣塲[とじゅうば]のワナに罹[かか]れる家畜の如く、単に一将官の言を他の将官が呑込[のみこ]み居らざりし結果として、戕害殺戮せられし者なり)の遁走せるは生き、遁走する能わざりし者は殺されたるを見て、武勇の行為なりと称賛し、以て質朴[しつぼく]なる人民を欺かんと力[つと]む、而して又陸海軍将官の肩書ある是等敗徳[はいとく]残忍なる連中の一人[にん]が、平和なる日本人民の一群を沈没せしめたる一事の如きも{下註}、露人の慶賀すべき一大名誉武勇の功績として嘖々[さくさく]せられ、諸新聞は一斉に左[さ]の如き殺人奨励の忌わしき文字[もんじ]を転載す

 「鴨緑江畔に死せる二千の露国兵士、破壊せられたるレトヴヰザン{今日の一般的表記では"レトヴィザン"。下註}及び其姉妹艦、損害を受けたる水雷艇は、実に我巡洋艦に向って、速[すみや]かに憎むべき日本海岸に奮進突撃せんことを促し居れるに非ずや、日本は露人の血を流さんが為めに其軍隊を派遣せる也、彼に対して寸毫も容赦すること勿れ、今や女々しかるべきの時に非ず、女々しきは罪悪也、吾人は戦わざる可[べ]らず、直ちに日本人の頭上[とうじょう]に大打撃を加えて、以て永く彼等の肝胆を寒からしめざる可らず、今は我巡洋艦が速[すみやか]に洋上に前進し明媚なる日本の沿岸を悪鬼の如く翺翔[こうしょう]して、其諸都府を灰塵[かいじん]に帰せしむべきの時なり、

決して女々しかること勿れ」

 一たび開始されたる猛悪なる事業は如此[かくのごとく]にして継続せらるる也、鹵掠[ろりょう]、凌虐[りょうぎゃく]、殺戮、偽善、盗賊、殊に甚[はなはだ]しきは最も恐るべき詐偽──基督教徒及び仏教徒両[ふた]つながら其宗教の教義を曲解せるが如き──すらも継続さるる也

 之が主[おも]なる責任者たる露国皇帝は、断えず兵士を点閲して彼等に感謝し、賞與し、且之を奨励す、彼は又勅旨を発して予備兵を召集す、彼[か]の忠良なる臣僚[しんりょう]は再三再四、其財産生命を我敬愛せる(口先のみにて)君主の足下に委[い]すと称す而して一面に於ては彼等は口先のみにあらずして、直[ただち]に実行に依[よっ]て功名を立てんが為に、人の父、人の良人[おっと]を取り去り、一家より其稼ぎ人を奪い去りて、以て屠戮を準備せしむ、露国の形勝[けいせい]益々非なるに従って、新聞記者の虚言は益々放漫を致す、彼等は何人[なにびと]も彼等に反対せざるを知れるが故に、醜辱[しゅうじょく]なる敗北を勝利と詐[いつわ]り、以て其紙数を増加し、金銭を利するの具に供す、戦争に要する財貨及び労働の益々多きに従って、有司[ゆうし]及び投機師の之に依て私利を営むもの亦益々多し彼等は何人も彼等を罪[つみ]する者なきを知れり、何となれは各人皆な同一の私利を営まざるはなければなり、不仁、陋劣、遊惰の学校に在って数年間殺人の業[わざ]を習練せる軍人は、(憐れなる者よ)密かに其給料の増加を楽[たのし]むのみならず、更に上官の戦死の為めに、立身の門戸開[ひら]くるを喜ぶ、基督教の牧師{下註}は断えず、人類を慫憑[しゅうひょう]して此最大罪悪を犯さしめんとし、神に向って戦争を幇助せんことを祈願して、以て其神聖を冒涜し、甚[はなはだ]しきは即ち殺人の現塲[げんじょう]に臨み、手に十字架を持して、人類の罪悪を奨励するをすらも、非難せずして是認する也、而して是等同一事は亦日本に於ても行われ居れり
 昏迷[こんめい]せる日本人は、其勝利を得たるの結果、殺人に対して一層大[おおい]なる狂熱を現しつつあり、日本皇帝も亦其軍隊を点閲し、賞賜[しょうし]し、幾多の将官は其殺人を学べることを以て、高尚なる智識教育を得たるが如くに思惟して、熾[さか]んに其武勇を相誇負[こふ]す、不幸なる労働者が必要なる職業と其家族とより引離されて呻吟することも露国と同じく、新聞記者が虚言を吐散[とさん]して、利益を得[う]るを喜ぶこと{底本でこの箇所の「こと」は合略仮名。下註}も亦露国と異ならず、而して亦恐らくば(殺人が徳行[とくこう]として尊崇せらるる処[ところ]には、各種の悪徳が盛[さかん]なるに至るは当然なるが故に)日本に於ても、長官及び投機師は競うて私利を営めり、日本の兵学が欧洲人に劣らざるが如く、日本の神学者及び宗教家の宗教的欺罔[ぎもう]及び褻涜[せっとく]の術も亦決して欧洲人の後に在らず、否な彼等は仏陀が禁じ玉[たま]いし殺生を許すのみならず、是を是認して憚らざる迄に、仏教の大救理[だいきゅうり]を紛更[ふんこう]す、

彼[か]の八百以上の寺院を統轄せる仏学者釈宗演{下註}は説[とい]て謂[いえ]らく、仏陀は殺人を禁じ玉いしと雖も、而も彼も尚お一切衆生が無辺の慈念を以て結合するに至る迄は、平和は決して来[きた]ることなけんと曰えり、然らば即ち扞格[かんかく]せる所の物をして調和せしむるの手段としては、戦争殺人も亦必要なりと

 斯くては世に人間精神の統一、相愛、哀憐[あいりん]、及び人生の神聖等に関する基督教及び仏教の教訓なきも同様なり、露人も日人も等しく是れ人間にして、既に真理の光に浴せるに、尚野獣の如く、否野獣よりも一層悪しく、彼等は互[たがい]に出来得る防[かぎ]り多くの生命を絶たんとて専心一意努力しつつあり、其結果、数千人は既に地中或[あるい]は地上に腐敗しつつあり、或は腫れただれて海上に浮[うか]びつつあり、又日本及び露西亜の野戦病院に於ては、数千の負傷者が、何故[なにゆえ]斯かる恐ろしきことの行われたるやを解し兼ねつつ、或は苦痛に堪えずして呻き或は苦痛に負けて死しつつあり、而して此等数千の死者の妻[さい]、父、母、小供等[とう]は無益に其[その]の稼人[かせぎにん]を殺されて哀哭[あいこく]しつつあり、されど之を以て猶[なお]足らずと為し、新犠牲又新犠牲は準備されつつあり、露国殺人機関の重[おも]なる仕事は、一日三千人を殺すの予定を以て、一分間も絶間なく、大砲の餌食を送出[おくりだ]すに在り、日本に於ても亦正に同様なり、蝗[いなご]が其溺れたる体[たい]を橋として其後列[こうれつ]の者を渡らしめんが為に、絶えず河流に押落[おしおと]されつつあるに似たり

 嗚呼何れの時にか此事止むべき、而して欺かれたる人民が遂に己れに返りて、何れの時にか能く左[さ]の言を発すべき、「汝、心なき露国皇帝、○○皇帝、大臣、牧師、僧侶[そうろ]、将官、記者、投機師、其他何と呼ばるる人にもあれ、汝等自ら彼[か]の砲弾銃弾の下[もと]に立てよ、我等は最早行くを欲せず、又決して行かざるべし」{下註}
 「願わくば我等を平和の中[うち]に置け、我等は耕作し、播種し、建築し、而して又汝等を養うべし、汝懶惰[らいだ]なる者よ」予備兵の名称を附せられたる稼人を奪い去られて、数万の母と妻[つま]と子供とが泣き呌ぶ声、国中[こくちゅう]に響き渡れる今日、是れ豈[あ]に自然の要求に非ずや、而して是等の人々(予備兵の多数)は大抵は読書力を有し、極東の何[なに]たるかを知り、此戦争が聊[いささ]かも露国の必要の為に起されたるにあらずして、只彼の投機師等が鉄道を架設して利益を得んとせる、謂わゆる租借地の事に関するを知り、又戦塲に赴かば、日本人の手に露軍の有せざる最新の殺人機あるが故に、彼等は屠所に於ける羊の如く殺さるべきを知るもあらん(露国政府は日本人の手に在ると同様の武器を準備せずして、見[み]す見す其人民を殺しに送りつつあり)、斯く何事をも知れる彼等が左[さ]の言を為すは亦其[またその]自然なるべし、曰く「行け汝等此戦争を起したる人々、此戦争を必要なりとする総ての人々、及び此戦争を是認する人々汝等宜[よろ]しく自ら行[ゆ]いて日本の砲弾及び地雷火[じらいか]に立向うべし、我等は此戦争を要せず、又此戦争が如何にして何人[なんぴと]の為に必要なるかを解せざるが故に、我等は決して行かざるべし」

 然れども否、彼等は之を言うこと能わず、彼等は行けり、又行きつつあり、彼等にして肉を亡[ほろぼ]すものを恐れて、霊と肉とを併せ亡すものを恐れざる間[あいだ]は、行くの外[ほか]道なかるべし

 彼等は論じて曰く、我等は果して彼の鎮南浦[ちんなんほ]{下註}の如き処[ところ]、或は如何なる処に於て殺さるべき乎[か]、負傷すべき乎、何処[いずこ]に連れ行かるべき乎、又何事を為さしめらるべき乎を知らず、只行けば助かることもあるべし、又今や露国中に於て盛んに歓迎されつつある水兵の如く日本の銃丸が他人にのみ当りて自分に当らざるが為に、名誉と賞典とを得て凱旋し得ることもあるべし、されど若し行くことを拒むとせば投獄、饑餓[きが]、殴打は並び至り、終[つい]にはヤクツク{今日の一般的表記では"ヤクーツク"}に追放せられ、多分は直ちに死刑に処せらるべしと、斯くて彼等は其心中に絶望を抱きつつ、善良なる正しき生活を後[のち]にして、其妻[さい]と其子をも後[あと]に残して、斯くて彼等は行く也

 昨日[さくじつ]予は一予備兵が其母と妻[さい]とを伴いて行くに会いたり、三人共に小車[しょうしゃ]に乗りたりしが、彼は一杯を過[すご]したるらしく、妻の顔は泣き腫れたりき、彼は予に向って曰く

 「さらばよ!リオフ、ニコラエヰツチ(トルストイの名){今日の一般的表記では"レフ・ニコラエヴィチ"。下註}、予は暫く極東に向って去らん」
 「然るか、汝も亦戦わんとする乎」
 「さなり、何人[なんぴと]か戦わざるを得ず!」
 「何人も戦うの必要なし!」
 彼一考して曰く
「されど如何せん、何処[いずこ]に逃れん方[かた]もなし」{下註}

 彼は予の言を理解したるなり、彼は今悪事の為に送られつつあるを理解したるなり

 「何処に逃れん方もなし」嗚呼是れ彼等の心的状態の直写[ちょくしゃ]也、官辺及び新聞社会などに於ては之を反訳して、国教の為、皇帝の為、祖国の為と謂う也、饑餓に迫れる家族を遺棄して、痛苦と死とに赴く者、其感ずる所を在の儘[ありのまま]に語れば曰く「何処に逃れん方もなし」而して華麗なる宮殿に安坐するの輩[はい]は曰く、露国人民は皆其敬愛せる君王[くんおう]の為に、及び其国威国光の為に、喜んで一死を捧ぐと

 昨日予は相識[そうしき]の一農夫より引続いて二通の書状を受取りたり

 其一通左[さ]の如し

 「親愛なるリオフ、ニコラエヰツチよ、

扨[さて]予は今日[こんにち]兵役に就くべく召集の通知に接したり明日[みょうにち]は本営に出頭せざる可らず、已[や]みなんかな、是れより只極東に行きて日本人の銃丸に当らんのみ

 「予自身及び予の家内の悲[かなし]みに就いては予は貴下に語らざるべし、予の地位の悲惨と戦争の悲惨とは、貴下の善く知る所にして、又貴下の常に痛嘆する所なり、予は貴下を訪問して貴下と語らんことを欲するや切なり、予は貴下に宛てて予の心の苦[くるし]みを記[き]したる長文の手紙を書きたり、されど召集を受けし時、予は未だ之を清書し得ざりき、予の妻[さい]は四人の子供を携[たずさ]えて抑々[そもそも]何を為すべき乎、貴下は老人なれば勿論予の家族の為に何事をも為し得ざるべし、されど貴下の友人に告げて暇[いとま]ある折に予の孤独なる家族を見舞わんことを勧めたまえ、若し又予の妻が其寂寥の苦痛と子供の重荷とに堪えずして貴下を訪[と]う事あらば願わくば彼を引見して少しく彼を慰めたまえ、彼は未だ親しく貴下を知らざれども深く貴下の言葉を信ず、大[だい]なる意味其中[うち]に籠[こも]れり

 「予は招集を拒むこと能わざりき、されど予は今より言う、日本人の一家族だも予の為に孤独となる事なかるべし、我が神よ、如何に恐ろしき事共なるよ、悉[ことごと]く其の共に住む所を去り、悉く其の相関[あいかん]する所を離るるは、如何に痛苦悲惨の事なるよ」

 第二の書面は左の如し

 「最愛なるリオフ、ニコラエヰツチよ

 「就役して僅[わずか]に一日[じつ]を過ぎしのみなるに、予は既に無限の長きを感ずるまでに、落胆苦悶の中[うち]に陷[おちい]れり、朝の八時より夜[よ]の九時まで、家畜の群[ぐん]の如く兵営の庭に集会してコヅキ廻され、滑稽なる診断は三回まで繰返されたり、而して自ら病気なりと言い立てし人々も、十分間の検査すらも経ずして、皆な合格の印しを付けられたり、是等の合格者たる我々二千人が、指揮官に駆られて、舎営中に入[い]るの時、道傍[どうぼう]には殆ど一ウエルスト{今日の一般的表記では"ヴェルスタ" 等。約1km }許[ばか]りの間、親戚、老母、及び小兒[しょうじ]を抱[いだ]ける妻女堵[と]を成して立てり、若し貴下をして、如何に彼等が其父[そのちち]良人[りょうじん]、子息に取付き相抱[あいいだ]きて号哭[ごうこく]するかの状を見聞[けんぶん]せしめしならば!予は初めより静粛なる動作を保ち、力[つと]めて感情を抑制したりしも、遂に堪え切れずして亦涕泣[ていきゅう]したりき」(若し此の状を描く新聞記者の用語を以てすれば「愛国の志気は無限に発揚せられたり」というならん)
 「今や何物か能く此世界の三分一を掩[おお]える無限の悲痛に比すべきものあらんや、而も我等は今や大砲の食物たり、遠からずして復仇と暴戻との神に人身御供[ひとみごく]とせらるるならん」

 「予は今や心気悶々として堪ゆる能わず、嗚呼唯一[ゆいち]の主なる神に奉仕する能わざる予は、何等の腑甲斐[ふがい]なき者ぞや」

 此人や、彼[か]の肉体の破滅の決して恐るべきに在らずして、恐るべきは実に肉体と霊魂と両[ふた]つながら破滅するに在ることを、未だ十分に確信し居らざりしが故に、断然出征を拒絶すること能わざりしと雖も、而も彼[かれ]は其家族と訣別し去るに臨んで、日本人の一家族だも彼の手に依[よっ]て孤独となること無かるべきを約したりき、彼は実に神の大法[たいほう]、一切宗教の法則、即ち已[おのれ]の欲する所之を人に施せてふ法則──を信ぜるなり、夫[そ]れ如此[かくのごと]く多少此法則を覚了承認せるの人は、啻[た]だに基督教徒中に之を見るのみならず、仏教、回[ふいふい]教、儒教、波羅門教の世界に於ても、現に数千否な数百万を数うるを得べし

 世には真個[しんこ]の英雄あり、彼[か]の他人を殺すのみにして自身は決して殺されざりしというを以て、世人の為めに祭祀せらるる英雄にあらずして、彼の絶対に殺人者の列に伍するを肯んぜず、耶蘇の法則に違背せんよりは寧ろ道の為めに、殉するを甘んじて牢獄に入[い]り、若くばヤクーツクの辺地に配竄[はいざん]され居れる英雄なり、世には又予に書を寄せし人の如く、従軍すと雖も決して殺人を為さずと誓うの人もあり、而して大多数の人民は、其初めや自已[じこ]の所為に就て、深く思考する所なく、又思考するを欲せざりしも、今や亦漸[ようや]く、彼等をして其の労働に離れ、其家族に別れしめ、其精神、其信仰に反せる無用の殺人を為さしめんとする当局有司[ゆうし]の命令に服従するを以て、悪事なりと感ずるに至れり、而も彼等が従軍を肯んずるは、唯だ「何処に逃れん方もなき」までに、四面抑塞[よくさい]の中[うち]に在るが故のみ

 之と同時に、其郷里に残れる人民に至りては、既に之を感ぜるのみならず、亦之を知り之を語れる也、昨日予は大道[だいどう]に於てツーラ{"トゥーラ",1章註参照}より帰りつつある農夫等に会[かい]せしに、其一人[にん]は手に一葉の刷物[すりもの]持ちて読みながら、小車に付添いて歩めり

 予は問えり

「开[そ]は何ぞや、電報なるか」
「是は昨日の電報なり、左[さ]れど、本日のも茲[ここ]に在り」

 彼は衣嚢[いのう]より他の刷物を取出[とりいだ]せり、我等は倶[とも]に立止[たちとどま]りて之を読めり

 彼は曰く「貴下は昨日停車塲にて起れる事共を見られしならん、実に惨酷なりき、妻[さい]や小兒[しょうじ]や、其数[すう]、千人に超[こ]ゆべし、皆な打泣けり、彼等は列車を囲めり、左れど近寄るを許されざりき、ツーラ{前出}より来[きた]れる一婦人は、卒倒して遂に死せり、後には五人の小兒あり、彼等は諸処の養育所に連れ行かれたり、左れども其父は同じく出征せしめられき……満洲にもあれ何[いずく]にもあれ、我等は何の要する所ぞ、土地は是にて十分なり、如何に多数の人民と財産の破滅されたるよ」と

 然り、人類と戦争との関係は、今や全く古[いにし]えと異なれり、近く七十七年頃に比してすら全く異なれり{下註}、今や曾て無かりし所の者を生ぜり

 諸新聞紙は、露国皇帝が其殺人の為めに派遣すべき人民を麻睡[ますい]するの目的を以て、国内を巡幸するに当り、各地人民は非常なる熱心を以て歓迎せる由を報じたり然れども事実は全く之に反せり、某地に於ては三人の予備兵縊[くび]れて死し、某処に於ては更に五人の死者ありき、而して或地方に於ては、其良人[おっと]を取去られたる一婦人が徴兵係の室[しつ]に其小兒等を伴い来[きた]り、同処に捨置きて行衛[ゆきえ]知れずなれるあり、又或婦人は軍隊指揮官の庭内に入[い]りて縊死[いっし]せりという、是等皆な不満、悲痛、絶望の結果ならざるは無し、彼[か]の「信仰の為め、君王の為め、祖国の為め」てふ語句や、国歌や、万歳の呌声[きゅうせい]や、最早人民に対して以前の如き効力なし、今や別に一種の戦争──即ち人民が其賦課[ぶか]せらるる事業の虚偽と罪悪とを自覚せるより生ずる心中の苦闘は漸次に彼等の間に蔓延しつつある也

 然り、我等の時代に於ける大争闘[だいそうとう]は、今の日露間のそれにもあらず、黄白[こうはく]両人種間に邀進[げきしん]せるそれにもあらず、地雷、爆弾、銃丸に依[よっ]て行わるるそれにもあらず、実に精神的争闘也、而して此争闘や、現に天啓を期待せる人類の明達なる自覚と、一般人類を囲繞[いきょう]し圧迫せる黒暗及び負担との間に、間断なく行われつつある所の者也

 昔は耶蘇其仰望[ぎょうぼう]する所を示して曰く
 「我は火を地に投入れんが為めに来[きた]れり、我れ何をか望[のぞま]ん、既に此火の燃[もえ]たらんこと也」(路加[るか/ルカ]第十二章第四十九節){下註}

 耶蘇の望みし所は今や成遂げられつつある也、火は熾[さか]んに燃えつつある也、我等をして之を防遏[ぼうあつ]せしむる勿れ、否な之をして蔓延せしめよ、而して之が為めに奉仕せしめよ

  一千九百四年五月十三日{下註}
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 若し茲[ここ]に本篇の主意を強むべき一切の材料を添加すとせば、予は殆んど本篇を終るの時なかるべし、昨日日本甲鉄艦[こうてつかん]沈没の報知は来[きた]れり{下註}、而して露国の謂わゆる上流社会、交際社会、金力智力の社会に於ては、其良心に微震[びしん]だも感ずる事なくして一千人の生命の滅尽[めつじん]せられたるを歓喜したり。然るに今日[こんにち]、予は社会の最下層に立てる一水夫より左の如き手紙を受取りたり

 「尊敬するリオフ、ニコラエヰッチよ、予は低頭して愛心を以て、予の意[こころ]を貴下に致す、尊敬するリオフ、ニコラエヰツチよ
 「予は貴下の書を読みたり、そは予に取りて実に善き読物なりき、予は貴下の書の愛読者となれり、扨[さて]、リオフ、ニコラエヰツチよ、我等は今戦争の状態に在り、我等の指揮官が我等に殺人を迫るは神の意[こころ]に叶うや否や、願わくば予に教示[きょうし]せよ、真理は今地上に存在するや否や、願わくは予に教示せよ、リオフ、ニコラエヰツチよ、必ず之を予に語れ、教会に於ては祈祷も行われ居れり、僧侶は基督愛護軍の事を説き居れり、神は戦争を愛すとは真[まこと]なりや否や、至嘱[しぞく]すリオフ、ニコラエヰツチ、真理が地上に存せりや否やを見るべきの書籍を予に示せ、斯くの如きの書を予に送れ、如何に高価なりとも予は之を払うべし、願わくばリオフ、ニコラエヰツチ、予の求[もとめ]を忘るる勿れ、若し書籍なくば手紙を予に送れ、予は深く貴下の手紙を得[う]るを喜ぶ、予は渇[かっ]したるが如くに貴下の手紙を待つべし、さらばよ、善き健康と善き成功との貴下の事業の上に在らんことを祈る」{下註}

 次に住処[じゅうしょ]姓名あり、旅順港、艦名、職名等を記[しる]せり

 予は此[この]の親愛すべき、摯実[しつじつ]なる、真の達識の人に対し、直接に言葉を以て答うること能わず、彼は今既に文書或は電報の通ぜざる旅順港に在り、然れども我々は猶[なお]互[たがい]に交通すべき方法を有せり、其方法は即ち神にして、我々は共に神を信じ、戦争が決して神の意[こころ]に合[がっ]せざることを知る也、彼の心に起りたる其疑いは、同時におのずから其解釈を含めり、

而して此疑いは今数千数万の人心に生起し来[きた]れり 露国人に限らず、日本人に限らず、総て暴力を以て人性の自然に反する行為を迫らるる不幸なる人民に於て皆然り

 人民は一時催眠術に依って蠱惑[こわく]せられ、政府は猶之を以て人民を蠱惑せんと勉め居れど、眠[ねむり]は早くも覚めんとし、其効果は既に漸く微弱となれり、而して一方には「我々の指揮官が殺人を我々に迫るは神の意に合するや否や」との疑いは層一層に其強きを加え、之を消さん事は思いも寄らず、層一層に伝播[でんぱん]し居れり

 「我々の指揮官が殺人を我々に迫るは神の意に合するや否や」との此疑いは即ち彼の耶蘇が地上に燃[もや]したる其火の火花にして、今正に伝播を始めつつあるなり、

之を知り之を感ずるは大[だい]いなる喜悦なり

レオ、トルストイ


  千九百四年五月廿一日ヤスナヤ、ポリアナ{今日の一般的表記では"ヤースナヤ・ポリャーナ"。下註}に於て



※都合により、第九〜十一章に続き本章についても、註を(ほぼ)省いた形で一旦UPします(近日中に追加予定ではあります)。

ただ、部分的に註釈的なことを書いておきますと。

※「仏学者釈宗演は説て謂らく」……釈宗演の主戦論の関連は別途独立の記事として立てました。後の方になりますが「釈宗演の日露戦争主戦論に関して」及び「釈宗演『戦争を何とか観る』」の回をご覧ください。

※「汝、心なき露国皇帝〜又決して行かざるべし」……ここで列挙されている諸々の職業(?)等は全て原文では複数形。
「(ロシア)皇帝たち、(日本の)ミカドたち(後述)、大臣たち……」といった感じです。
文中の「○○皇帝」は伏せ字。上にも書いたように原文では「ミカドたち/микады」。英訳では "Mikados"。とは言え、原文に当たるまでもなく、この2文字が「日本」なのはミエミエではあります。
なお、日本の天皇は、11章までは「エンペラー」に相当するロシア語単語で書かれていますが、第12章になって「ミカド」の表記が2度現れます(ここが2箇所目)。細かいニュアンスの違いなどあるのかもしれませんが、私にはよく分からないところです。
「牧師」と訳されている語は「митрополиты」。「府主教たち」。これは正教会でも高位の役職。「牧師」は、あまり適訳とは言えないようです。もちろん第二章の註で述べた「牧師」とは異なる単語です。
次の「僧侶」は「аббаты」。外来語と言いますか、元はフランス語の "abbé" 。「(カトリックの)修道院長たち」ぐらいの感じでしょうか。もっともこちらの語は(カトリックの)「神父」ぐらいの人にも使ったりするようです。

※鎮南浦……第九章の註を参照のこと。