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トルストイの日露戦争論/「汝ら悔い改めよ」 第七章

第七章

 現時の人類を苦悩せしむる害悪の、由[よっ]て生ずる所は、多数人民の生活中、合理的に人間活動を指導すべき唯一[ゆいち]要件を有せざるに在り──即ち宗教を有せざるに在り、但だ茲[ここ]に宗教というは、彼[か]の一時の快楽、安心、皷舞[こぶ]を與うるに過ぎざる教条の信仰、儀式の執行を専[もっぱ]らとせる宗教を指すに非ずして、実に人類と全能者、人類と神との関係を確立し、総て人間の活動をして一層向止[こうし]せしむるの宗教にして、是れなくんば人も禽獣[きんじゅう]と異なるなく或は禽獣以下に堕するやも知る可[べか]らず、而して爾[しか]く人をして大破壊に至らしめずんば已[や]まざるの害悪は、特に我等の時代に於て其勢力を現[あらわ]し来[きた]れり、何となれば、今の人々は一切人生の合理的指導者を喪失して、主として科学上の発見改良に其全力を注げるの結果として、彼等自ら大[おおい]に自然の勢力を圧倒すべき能力を発達し得たりと雖[いえど]も、而も此能力を合理的に応用すべき何等の指導者をも有せざるが故に、之をもて徒[いたず]らに劣等なる動物的なる嗜欲[しよく]を満足せしむるの用に供するに至れるは、自然の勢いなれば也

 夫[そ]れ宗教を喪失せるの人類にして、自然の勢力を圧倒すべき偉大の能力を有するてふ[ちょう/という]ことは、是れ恰[あたか]も弾薬、爆裂瓦斯[がす/ガス]をもて小兒[しょうじ]の玩具に供するが如し、世人若し今の人類が有せる這個[しゃこ]の能力と、彼等が之を使用するの方法如何を考察せば、而して更に彼等が道徳的発達の程度如何を考察せば、必ずや今の人類が決して鉄道、蒸気、電気、電話、写真、無線電信を用ゆるの権利なきのみならず、製鉄、製鋼の如き単純なる技術を用ゆるの権利すらも之れ無きことを感ずるならん、見よ彼等は此等の改良及び技巧をもて、単に其肉欲、快楽、放蕩の為めに、甚[はなはだ]しきは即ち相互の破壊の為めに使用しつつあるに非ずや

 然らば則ち如何に之に処すべき乎[か]、是等一切の改良、人間の獲得せる一切の能力を排斥すべき乎──則ち既に学べる所を全く遺忘[いぼう]せしむべき乎、否な是れ到底不可能の事也、是等の精神的に獲得せる者が如何に害用せらるるも、人は決して之を遺却[いきゃく]し得べきに非ず、然らば則ち数百年来諸国民の間[あいだ]に形成されたる結合の方法を一変して、新組織を以て之に代うべき乎、少数者の多数人[たすうじん]を欺罔[ぎもう]し掠奪することを防拒[ぼうきょ]し得べき新制度を発明すべき乎智識を普及せしむべき乎、否な是等の事も既に試みられたり、今も猶[な]お非常の狂熱を以て試みられつつあり、而して総て是等の架空的政策は、実に一種有力なる気休めの方法にして、世人をして滅亡の必ず到来すべきことを忘却せしめんとする者なり、夫[そ]れ国家の境域[きょういき]は変更すべし、制度は改正せらるべし、智識は普及せらるべし、然れども人類は、如何に他の境域、他の組織の中[うち]に在りて、如何に其智識を増進するも、若し彼等が宗教的自覚に依[よっ]て指導せらるることなくして、単に感情、神学、外部の勢力に依て支配せらるるの間[あいだ]は彼等は依然として常に搏噬[はくぜい]を試むるの野獣たり、若くは依然として奴隷たるを免れざる也

 人は選択の自由を有せず、彼は到底人間奴隷中の奴隷たらざる可らず、然らずんば唯だ神の僕従[ぼくじゅう]たらざる可らず、何となれば人の自由なるべき唯一[ゆいち]の方法は、其意志を神の意志と結合するに在れば也、而も人は宗教を失えり、或者は宗教其物を排斥せり、或者は外部の荘大[そうだい]なる儀式を目して直ちに宗教なりと為せり、而して唯だ肉欲、恐怖、人間的法律就中[なかんずく]相互の催眠術に依て指導せられて、動物若くは奴隷の境[さかい]を脱する能わざる也、然り、外部の尽力は決して彼等を救う能わず、人を自由となすものは唯だ宗教あるのみ

 而も現時代の多数人種[じんるい]は、之を喪失せる也