私が好きな夏目漱石の講演(の枝葉部分)1 「作物の批評」冒頭のカリキュラム論
前置き
夏目漱石の講演にはいろいろ有名なのがありますが。
「(講演自体は)そこまで有名でもない」とか「本筋とは少し外れるかも」というようなところに、なかなか(私にとっては)グッとくる記述があったりするのです。
機会があったら、ここでいろいろご紹介していきたい気がするのですが。
とりあえず今回、パイロット的に一つ。
第二回以降も、できれば書きたい、ぐらいの気持ちです(苦笑)。
「作物の批評」冒頭のカリキュラム論
どうせ著作権フリーなので、一気に引用しちゃいます(^_^;)。
お忙しい方は太字にしたところだけ飛ばし読みしていただければ、おおよその論旨は分かるかと。
講演全体をお読みになれば分かることですが、このカリキュラム論(?)は全くの枕にすぎず、本題は全然違うところにあるのです(タイトルにもあるように、文芸評論に対する漱石の見解)。
それにも関わらず、この枕だけ読んでも、なかなか示唆に富んでいる気がします。
これを最初読んだ時、
「かかる行動に出ずる人の中で、相当の論拠があって公然文部省所定の課目に服せぬものはここに引き合に出す限りではない。それほどの見識のある人ならば結構である。」
……というところが余りピンとこなくて。「変な留保が付いてるな」と思ったんですが。
後になって、すごく分かる気がするようになりました。「さすが漱石は慧眼だ」と。
もっともさらにこの頃は。「言うほど大した見識もない人が、賢人ぶって口を出すことが増えたなぁ」とか思うようにもなりました(苦笑)。
以下はずっと余談のような話になります。
学校教育で教える教科を「◯◯」から「△△」に入れ替えるべき、みたいな議論が時々話題になります。
私は、教育のカリキュラムを変更すること(単元とか教科丸ごとの入れ替えも含め)自体には特に否定的ではありません。
具体例を上げると関係者の方はお腹立ちになるかもしれませんが。
例えば、そろばんの授業は廃止して、代わりに「コンピュータ・サイエンス」への導入的な授業にあててはどうか、とか。
「古文・漢文」を削り、代わりに現代の中国語を、いわゆる第二外国語として教えることにしてはどうかとか。
仮にそういう話が教育審議会(でいいんでしょうか?)とかで持ち上がったとしたら、私は「それも悪くない」ぐらいに思うかも。
(下は類似の、あるいは似て非なる?意見例)
義務教育9年。高校もいれるなら12年。それなりに長いとは言え、あくまでも一定の枠がある限られた時間。
正味の授業時間を計算すると、おそらくトータル2万時間とか、それくらいになると思いますが。
その2万時間をどのように割り振るのがベストなのか。それは確かに、よくよく検討されてしかるべき問題でしょう。
(以下、工事中。近日中に加筆予定です。)