見出し画像

私が好きな夏目漱石の講演(の枝葉部分)1 「作物の批評」冒頭のカリキュラム論

前置き

夏目漱石の講演にはいろいろ有名なのがありますが。

「(講演自体は)そこまで有名でもない」とか「本筋とは少し外れるかも」というようなところに、なかなか(私にとっては)グッとくる記述があったりするのです。

機会があったら、ここでいろいろご紹介していきたい気がするのですが。

とりあえず今回、パイロット的に一つ。
第二回以降も、できれば書きたい、ぐらいの気持ちです(苦笑)。

「作物の批評」冒頭のカリキュラム論


どうせ著作権フリーなので、一気に引用しちゃいます(^_^;)。
お忙しい方は太字にしたところだけ飛ばし読みしていただければ、おおよその論旨は分かるかと。

 中学には中学の課目があり、高等学校には高等学校の課目があって、これを修了せねば卒業の資格はないとしてある。その課目の数やその按排の順は皆文部省が制定するのだから各担任の教師は委託をうけたる学問をその時間の範囲内において出来得る限りの力を尽すべきが至当と云わねばならぬ。
 しかるに各課担任の教師はその学問の専門家であるがため、専門以外の部門に無識にして無頓着なるがため、自己研究の題目と他人教授の課業との権衡を見るの明なきがため、往々わが範囲以外に飛び超えて、わが学問の有効を、他の領域内に侵入してまでも主張しようとする事がある。たとえば英語の教師が英語に熱心なるのあまり学生を鞭撻して、地理数学の研修に利用すべき当然の時間を割いてまでも難句集を暗誦させるようなものである。ただにそれのみではない、わが専攻する課目のほか、わが担任する授業のほかには天下又一の力を用いるに足るものなきを吹聴し来たるのである。吹聴し来るだけならまだいい。はてはあらゆる他の課目を罵倒し去るのである。
 かかる行動に出ずる人の中で、相当の論拠があって公然文部省所定の課目に服せぬものはここに引き合に出す限りではない。それほどの見識のある人ならば結構である。四角に仕切った芝居小屋の枡みたような時間割のなかに立て籠って、土竜のごとく働いている教師より遥かに結構である。しかし英語だけの本城に生涯の尻を落ちつけるのみならず、櫓から首を出して天下の形勢を視察するほどの能力さえなきものが、いたずらに自尊の念と固陋の見を綯り合せたるごとき没分暁の鞭を振って学生を精根のつづく限りたたいたなら、見じめなのは学生である。熱心は敬服すべきである。精神は嘉すべきである。その善意的なるもまた多とすべきである。あるにもかかわらず学生は迷惑である。当該課目における智識が欠乏するためではない、当該課目以外の智識が全然欠乏しているからである。ただ欠乏しているからではない。その結果としていらぬところまでのさばり出て、要もない課目を打ちのめさねばやまぬていの勇気があるから迷惑なのである。

夏目漱石「作物の批評」冒頭部分

講演全体をお読みになれば分かることですが、このカリキュラム論(?)は全くの枕にすぎず、本題は全然違うところにあるのです(タイトルにもあるように、文芸評論に対する漱石の見解)。
それにも関わらず、この枕だけ読んでも、なかなか示唆に富んでいる気がします。

これを最初読んだ時、
「かかる行動に出ずる人の中で、相当の論拠があって公然文部省所定の課目に服せぬものはここに引き合に出す限りではない。それほどの見識のある人ならば結構である。」
……というところが余りピンとこなくて。「変な留保が付いてるな」と思ったんですが。
後になって、すごく分かる気がするようになりました。「さすが漱石は慧眼だ」と。

もっともさらにこの頃は。「言うほど大した見識もない人が、賢人ぶって口を出すことが増えたなぁ」とか思うようにもなりました(苦笑)。


以下はずっと余談のような話になります。

学校教育で教える教科を「◯◯」から「△△」に入れ替えるべき、みたいな議論が時々話題になります。

私は、教育のカリキュラムを変更すること(単元とか教科丸ごとの入れ替えも含め)自体には特に否定的ではありません。

具体例を上げると関係者の方はお腹立ちになるかもしれませんが。

例えば、そろばんの授業は廃止して、代わりに「コンピュータ・サイエンス」への導入的な授業にあててはどうか、とか。

「古文・漢文」を削り、代わりに現代の中国語を、いわゆる第二外国語として教えることにしてはどうかとか。

仮にそういう話が教育審議会(でいいんでしょうか?)とかで持ち上がったとしたら、私は「それも悪くない」ぐらいに思うかも。

(下は類似の、あるいは似て非なる?意見例)


義務教育9年。高校もいれるなら12年。それなりに長いとは言え、あくまでも一定の枠がある限られた時間。
正味の授業時間を計算すると、おそらくトータル2万時間とか、それくらいになると思いますが。
その2万時間をどのように割り振るのがベストなのか。それは確かに、よくよく検討されてしかるべき問題でしょう。

以下、工事中。近日中に加筆予定です。