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かつて、アニメは教科書でディスられていた

(トップ写真はイメージです)

アニメは良くないもの?

スタジオジブリ制作のアニメは日本の誇る文化である、と誰もが認める今となっては、もはや信じられないようなことですが。
かつてはアニメという表現手段そのものをディスるような文章が公然と教科書に載っていたりしました。
(個別の、低俗な作品を批判する、とかではありません)。

これは本当の話です。

とは言ってももう大分昔のことですし、さすがに今、そんな「人様の商売」にケチをつけるような内容の文章を教科書に載せるようなことはなくなったのではないかと……思いたいですけどね。

ともあれ、今思い出しても少々不快なその文章について、今回は思い出してみます。
プラス、ちょっとオマケつきです。


論説の内容(記憶より)

繰り返しですが、もうウン十年前のことで。中学の教科書だったか高校だったか。国語だったか道徳だったか。もう記憶が定かではありません。内容も細かい点での記憶違いがあるかもしれません。筆者の名前などももちろん覚えておりません。

でも、とにかく基本的な内容ははっきり覚えているし忘れられるものでもありません。

その論説文は、読書の素晴らしさを説き、若者に読書を薦める内容のものでした。
それは別にいいんですが。

そこから筆者は漫画映画(=アニメ)に対して、以下のような攻撃を加えるのです。


(注:以下の文章は記憶からの再構成です)

私は子供の頃から「西遊記」が大好きであり、何度も繰り返し読んでは、孫悟空が縦横無尽に空を駆け巡るさまを想像し、夢躍らせたものであった。

そんなある時、みんなで「西遊記」の漫画映画を見る機会があり、私は大喜びでそれを見に行った。

だが、実際に見て、ひどくガッカリしてしまった。映画の中の孫悟空の活躍は、私が頭の中で想像していた縦横無尽の活躍とは比較にもならぬ、極めて貧弱なものだったのである。

思うに、漫画映画などというものは子供の自由な想像力を貧弱なイメージに縛り付ける、良くないものである。
それに対し、読書は子供の自由な想像力を養う、素晴らしいものなのだ。

概略、こんな感じだったと思います。

まぁ、本稿ではくだくだこの文章に反論とかはしません(したいけど)。
アニメが日本文化の中にそれなりの地歩を占めている今日、こうした文章の独善性を批判するロジックは大方のみなさんが自前でご用意できるでしょうから。

あとは、関連の嫌な思い出をちょっと思い出すだけにしておきます(やっぱり根に持っている^_^;)。

私がまだ若く、血気盛んな青年だった頃(笑)。当時のアニメブームの熱気をそのままに、アニメの素晴らしさみたいなことを力説することがあったけど、上記の内容そのままの受け売りで反論してくる人も多かったです。

大学の講義で自由討論みたいなことをする機会があって、アニメの話をふったこともあったけど、その時もそんな論調をとる人が多くて、どうにも「話にならん」という印象を持ったものです。

まぁ、大学生と言っても、はじめのうちは高校生と変わりませんからね。なまじ真面目な学生さんほど教科書に書いてあることを絶対視しがちという傾向はあるのかも。

……まぁグチはこの辺にしておきます。


オマケ(その映画は何だった?)

ところで。
今日は実に便利な時代でして。
上に書いた私の記憶がそれなりに正しいとすれば、ですが。この筆者が子供の頃に見たというアニメが何だったかある程度推察がついてしまいます
どころか、それをオンラインで、動画で見れてしまうのです。

なんだか凄いですね。

私の悪い癖である余計な前置きはこの辺にしまして、私のカンだと、その作品の正体はおそらくこれ。

『鉄扇公主』(1941年、中国)

【こんなふうに断言して、もし間違っていたら恥ずかしいですが。いかにもこれっぽいと思うのですよ。というのも、古い時代の「西遊記」モノのアニメ映画なんてそう多くもなく、これも凄いことにネットで簡単に一覧を見れたり、実物を視聴できたりするんです。その中で一番条件が合いそうなのがこれではないかということです。】

Wikipediaにちゃんと記事があります。


そして、動画はこちら。
(なぜかシークバーが表示されませんが、画面内、上の方をタップすると別窓に飛べたりするので、それで対応お願いします。)


Wikipediaの記事の冒頭の制作国のところに “中華民国(汪兆銘政権)”とあるのは、地味に重要かもしれません。
後述のようにこの映画は日本にも輸入されていますが、汪政権下で作られたものなら日中戦争中でも日本に来ていて不思議はない、のでしょうから。

以下もWikipediaの記事の引用です。

1930年代後半の日本による上海占領期に、万氏兄弟は中国最初の長編アニメーション映画の制作に着手した。1939年にディズニーの『白雪姫』を観た万兄弟は、中国の国威発揚のために、『白雪姫』を目標とした同品質のアニメーション映画の作成を試みたのである。
『鉄扇公主』はアジア最初の長編アニメーション映画となり、また、全世界では12番目の長編アニメーション映画となった
本作は太平洋戦争下にあった日本にも輸入されて1942年に公開され、徳川夢声・山野一郎・神田千鶴子らが吹き替えを担当し、人気を博した。
早くも1942年にはディズニーやフライシャーが公開を禁止されていた戦時下の日本に輸出されて大ヒットし、1942年度上半期の興行成績第5位という好成績を収めた。
当時14歳の手塚治虫にも影響を与えた。手塚が漫画家となって執筆した『西遊記』の翻案作品『ぼくのそんごくう』は本作から大きな影響を受けており、手塚は講談社版手塚治虫漫画全集の同作品に付した「あとがき」の中で、火焔山のエピソードは結局本作に似たものになってしまったと記している。

こうしてみると、随分立派な作品ではないでしょうか。少なくとも、そう気楽にディスって良いような作品とは思われません。

もちろん、最初に紹介した論説を書いた人は子供の頃、この映画のイマジネーションを遥かに超える素晴らしいイメージを頭の中に広げることができたのでしょうし。
それゆえ、漫画映画を下らないものだと考えたとしても、それ自体は自由。そういう意見をエッセイなり論説文に書くのも自由ではありますが(独断と偏見に満ちていると思うけど、それはそれ)。

ただ、こういう内容の文章を、特に問題とも思わず教科書に採用した教科書会社の見識は問われるべきではと、今でも私はぶちぶち文句を言いたい気分なのです。

P.S. とはいえ、なんだか変な教訓を説く道徳教科書、みたいな話は今でも聞くかな。『星野君の二塁打』なんか有名(ないし、悪名高い)ですね。
(本稿のテーマとは離れるので、興味のある方はググってください。)

P.S.2 本稿を書くきっかけの一つは、古い日本のアニメを見られる「日本アニメーション映画クラシックス」のサイトを見つけたことだったりします。
結果として、このサイトの情報はあまり関係ないということにはなったのですが……。
とは言え素晴らしいサイトですので、ご興味のある方はぜひ一度覗いてみてください。

P.S.3 スタジオジブリの映画についてよく引き合いに出されるのが「イマジネーションに溢れる、躍動感に満ちた動画」なんですが。冒頭のような論調をいかにも気にしそうなジブリのこと。実作でもってそれに反論したのがあの作品群なのかも、と思ったりもします。