見出し画像

高村光太郎の戦争詩より(「危急の日に」、ほか4編)

以下の文中では、引用元の詩集などへの言及がありますが、それら(元資料)の中には、閲覧にあたって国会図書館のアカウント作成が必要なものもあります。登録はオンラインで可能。無料。


はじめに


ちょっと前の記事で、戦時中の新聞報道に関係した話題を少し取り扱いました(当時の朝日新聞の報道を批判する人の中には、「朝日新聞だけが突出して好戦的だった」かのように勘違いしている人もいるようだ、というような内容)。

その文中、一言だけ触れたのですが、太平洋戦争の開戦を告げる1941年12月8日(9日づけ)の読売新聞夕刊に、高村光太郎は「危急の日に」と題する詩を寄稿しています。


高村光太郎の「戦争責任」についてはいろいろな議論があったりするようですが、私は専門ではないから、そのへんのことはよく分かりません。(下に補足)

「今さらそんなことどうでもいいではないか」というような発想にも私は立たないですが、かといって「断じて許せない」というほどの熱量の持ち合わせもありません。

ただ、少なくとも「危急の日に」は、その発表の時と場所からだけで考えても「見逃せない歴史資料」のカテゴリーに入るものだと思います。
その割にはネットで検索してもあまり見つからない感じなので、文字起こしをしてみようと思い立ちました。

それに加えて、個人的に(いろいろな意味合いでもって)興味深く思われた詩を4編ばかりピックアップし、併せてここに載せることにしたものです。

「危急の日に」「十二月八日」「シンガポール陥落」は開戦前夜〜戦争初期の詩、
「一億の号泣」「犯すべからず」は敗戦直後の詩です。

(補足)
一応、一般論としてはこう思います。
「著名な人士・芸術家は、その力でもって多くの人を動かせる。時として歴史そのものをすら動かせる。これは、その辺の将校が一部隊を率いるなどというよりよっぽど大きな影響力を持つ。そうした影響力の行使には当然に、相応の責任を伴う」と。




※凡例的なことは、一番最後にまとめて記載することにしました。

※詩の後にコメントをつけたものがありますが、あくまで専門家でない、一介のシロウトの感想としてお読みください。



危急の日に


「本日天気晴朗なれども波高し」と
あの小さな三笠艦がかつて報じた。
波大いに高からんとするはいづくぞ。
いま神明の気はわれらの天と海とに満ちる。
われは義と生命とに立ち、
かれは利に立つ。
われは義を護るといひ、
かれは利の侵略といふ。
出る杭を打たんとするは彼にして、
東亜の大家族を作らんとするは我なり。
有色の者何するものぞと
彼の内心に叫ぶ。
有色の者いまだ悉く目さめず、
憫むべし、彼の頤使に甘んじて
共に我を窮地に追はんとす。
力を用ゐるはわれの悲みなり。
悲愴堪へがたくして、
いま神明の気はわれらの天と海とに満ちる。

──昭和十六年十二月四日──


※冒頭に書きましたように、1941年(昭和16年)12月8日(9日づけ)の読売新聞夕刊に掲載された詩です。

※太平洋戦争開戦のニュースを伝える新聞紙面に載る詩としては、ある意味うってつけの内容ですが、実際の執筆は驚くべきことに、開戦に先立つ12月4日。
これに関しては詩集『記録』にこうあります。

 昭和十六年十二月四日作。十月東條内閣成立。此年の息づまるやうな空気は国民をして最後の覚悟を固めしめた。当時日米交渉の委曲は一般に公表せられなかつたので、国民これを知る由もなかつたが、漠然たる、しかも確然たる予感は天と地とに満ちてゐた。此の詩は図らず開戦直前に成り、十二月八日の読売新聞夕刊紙上に発表せられた。

やはり芸術家の直観というのは恐ろしいものです。


十二月八日


記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼等のジャパン、
眇たる東海の国にして
また神の国なる日本なり。
そを治しめしたまふ明津御神なり。
世界の富を壟断するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国に於て否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
われら自ら力を養ひてひとたび起つ、
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する
十二月八日を記憶せよ。

──昭和十六年十二月十日──


※読みの補足
そを治[しろ]しめしたまふ明津御神[あきつみかみ]なり。

※1941年12月10日作、1942年1月「婦人朝日」に発表とのこと。


シンガポール陥落


シンガポールが落ちた。
イギリスが碎かれた。
シンガポールが落ちた。
卓上の胡桃割に挟まれた
胡桃のやうに割れてはじけた。
シンガポールが落ちた。
力が力をねぢ伏せた。
シンガポールが落ちた。
彼等の扇の要が切れた。
大英帝国がばらばらになつた。
シンガポールが落ちた。
つひに日本が大東亜を取りかへした。

あまり大きな感激は
むしろ人を無口にさせる。
お伽噺にきくやうな
そんな猛獣毒蛇の巣に踏み入つて、
われらの同胞は戦つた。
あの米屋のむすこさんも、
あのお店の板前も、
あの哲学の研究生も、
あの訓導も、あの教授も、
われらの隣人が皆血を流して
文字通り面もふらず突進したのだ。
言語にたえた強引に
油と火の海をも乗り越えたのだ。
空と海と陸との
こんな見事な一元化が曾てあつたか。

シンガポールが落ちた。
感謝の思ひに手がふるへる。
シンガポールが落ちた。
印度洋の波のやうに胸がゆれる。
シンガポールが落ちた。
残虐の世界制覇者をつひに破つた。
シンガポールが落ちた。
傲慢なアングロ・サクソンをつひに駆逐した。
シンガポールが落ちた。
大東亜の新らしい日月が今はじまる。
シンガポールが落ちた。
大東亜のもろもろの民よ、共にきけ。
ああ、シンガポールがつひに落ちた。

──昭和十七年二月十二日、A・K・に渡す──


※読みの補足
「面」[おもて]のルビ。

※1942年2月12日、JOAK放送のために作られた作品とのこと。


一億の号泣


綸言一たび出でて一億号泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて、
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五体をうたる。
五体わななきてとどめあへず。
玉音ひびき終りて又音なし。
この時無声の号泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る。
微臣恐惶ほとんと失語す。
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、
苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鉄の武器を失へる時
精神の純おのづから大ならんとす。
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん。


※読みの補足
《鳥谷崎[とやがさき]神社社務所の畳に両手をつきて、》
また「玉音」[ぎょくいん]、「眼」[まなこ]のルビ。

※1945年8月16日午前作、同17日の朝日新聞と岩手日報に掲載とのこと。
また「発表形」では後ろから数えて3行目「精神の武器おのづから強からんとす」だったとのこと。


犯すべからず


神聖犯すべからず。
われら日本人は御一人をめぐつて
幾重にも人間の垣根をつくつてゐる。
この神聖に指触れんとする者万一あらば
われら日本人ひとり残らず枕を並べて
死に尽し仆れ果てるまでこれを守り奉る。
われら一億老若男女の
死屍累々をふみ越えなくては
この神域は干しがたい。
蛮力に勝ちほこれる者よ、心せよ。
心なき汝の一指の動きは
古今絶無の悲劇をも生まう。
つつしみ立つ者必ずしも低からず、
傲然たるもの必ずしも高からず。
どんなことに立ち至らうとも
神国日本の高さ、美しさに変りはない。
やがて皎然とかがやき出でる
神聖日本文化の力をみよ。


※読みの補足
「御一人」[ごいちにん]、「干[をか]しがたい」のルビ。

※1945年8月18日作、「週刊少国民」に発表とのこと。



凡例


※詩の表記は基本的には、「国立国会図書館デジタルコレクション」に見つかる、以下の書籍を元(底本)にしました。

詩集「大いなる日に」(道統社、1942年)

・「高村光太郎全集 第3巻」(筑摩書房、1958年)……(以下、「全集」)

※初出等の書誌的なことについては上記の「全集」によるほか、次の論文も参考にしました。

・坪井 秀人「誰がための涙 : 〈一億の号泣〉の一日」


※漢字については新字体に改めましたが、かな遣いはそのままとしました。



・トップ画像はWikipedia記事「高村光太郎」 より。