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トルストイの日露戦争論/「汝ら悔い改めよ」 第十章

第十章

 「然れども敵若し来[きた]って我を襲わば如何」

 「汝の敵を愛せよ、然らば汝は一人[にん]の敵も持たざるべし」とは、基督が十二使徒に教えたる言葉{下註}にあらずや、此答[こたえ]は決して只の言葉にあらず、世人兎[と]もすれば敵に対して愛を説くを以て過実[かじつ]の言と為し、其真意は言葉の表面に在らずして、他に在りと思う者あれど、此答は実に的確明白なる行為と其結果とを指示する者なり

 敵を愛するとは──即ち日本人、支那人{下註}の如き、総て之に対して我国の愚物等が我国人[わがこくじん]の憎悪心を挑発しつつある黄色[こうしょく]人種を愛するとは、曾[かつ]て英人が為せし如く、阿片を以て彼等を毒殺するの権利を得んが為に彼等を殺すの意に非ず{下註}、亦曾て仏人、露人、独逸[どいつ/ドイツ]人の為せし如く、彼等の土地を奪わんが為に彼等を殺すの意に非ず{下註}、亦曾て露人が為せし如く、道路を破壊したるの罰に依りて生きながら彼等を埋[うず]むるの意に非ず、又彼等の髪を取って共に之を繋ぎ、之をアムール河[か]{下註}に沈むるの意に非ず{下註}

 「弟子は其師の上に在らず……弟子は其師の如くなるを以て十分なりとす」{下註}

 我々が敵と呼べる彼の黄色人民を愛するとは、基督教の名の下に、人間の堕落、贖罪[どくざい]、復活{下註}など、荒唐無稽の迷信を彼等に教うるの意に非ず、又人を欺き人を殺すの術を彼等に教うるの意に非ず、真に彼等を愛するとは、正義、無私、同情、愛憐[あいれん]を彼等に教うるに在り、而して之を教うるに言葉を以てせず、我々の善良なる生活を以て模範を示すに在り

 扨[さて]我々は彼等に対して何を為しつつありし乎[か]、今猶[なお]何を為しつつある乎

 我々にして若し真に我々の敵を愛せしならば、若し真に日本人を愛しはじむるならば、我々は一個の敵だも有せざるべし

 故に、軍事上の計画や、外交上の思慮や、行政、財政、経済上の方策や、革命的、社会主義的の伝道や、其他種々不必要なる学問やに其身を委ねて、之を以て人間の災害を救わんと欲する者に取りては、少しく奇異の観あるべしと雖[いえど]も、全体人間の釈放は、此の戦争の災害に就てのみならず、総て人が自ら招ける一切の災害に就て云うも、決して平和同盟を制定する帝王に依りて生ずべきに非ず、又帝王を廃し、或は憲法を以て之を制限し、或は王国に代うるに共和国を以てせんとする人に依りて生ずべきにもあらず、又平和会議に依ってにも非ず、又社会主義的方案の実行に依ってにも非ず、又海陸に於ける勝敗に依ってにも非ず、又図書館或は大学に依ってにも非ず、又今日科学と称せらるる、無益なる心的運動に依ってにも非ず、只彼の露国に於けるヂユクホボア、ドロジン、オルクホヴイクの如き、墺国[おうこく]に於けるナザレ子スの如き、仏国に於けるコンダシエーの如き、和蘭[おらんだ/オランダ]国に於けるテルヴエーの如き{下註}、其目的を生活の外形の変化に置かず、只我を此世に遣わせし神の意を切実に果さんと欲し、其全力を挙げて其実現に勉むるが如き、極めて単純なる人々の増加に依りてのみ、彼の人間釈放の業[ぎょう]は生ずべし、天国を我心の中[うち]に実現せる此種の人のみ、能く直接に其目的を有する事なくして、却って一般人心の渇仰[かつぎょう]せる外形の天国を建設し得[う]る者なり、

 救済は只此一方法に依りてのみ得らるべし、決して他の方法ある事なし、故に彼の人民を支配し、宗教的及び愛国的迷信を以て之を煽動し、排外心、憎悪心、及び殺戮心を鼓舞する人々の所為[しょい]の如き、又彼の人民を奴隷の境遇より救わんと欲して、之に激烈なる外形的の革命を切望する人々の所為の如き、或は又彼の多量なる偶然的智識(其大部分は不必要の智識を)獲得[えとく]すれば、人はおのずから善良の生活を為すを得べしと思える人々の所為の如き、総べて是れ人の要する所の物を其人より奪去[うばいさ]るものにして、只人をして一層遠く救済の道より隔離せしむるのみ

 今の基督教世界の人々が苦[くるし]められつつある其害悪は、只彼等が暫[しばら]く宗教を失いたるに在り

 或人々は、今の宗教と今の人心及び学術の進歩との不調和を見て、宗教は一般に其必要なしと断言せり、彼れは実に宗教なくして生活せり、何種[なにしゅ]の宗教も不必要なりと説きつつあり、而して又一方には、変形せる基督教を守りつつ、何等人心を導くの力なき其空虚なる外形を奉じて、実は前者と同じく宗教なくして生活しつつあり

 然れども、現時の要求に応ずる一宗教は儼存[げんぞん]して衆人に知られ、隠然として基督教世界の人心の中[うち]に生活せり、故に此宗教をして衆人の前に明[あきら]かならしめ、衆人を率いて立たしめんとするには、只民衆の指導者たる教育ある人士をして、宗教の人間に必要なる事、宗教なくば人は善良なる生活を為し得ざる事、及び今の謂[い]わゆる科学は宗教に代り得[う]る者に非[あら]らざる事を悟らしむれば足れり、而して又、権勢の地に在る人々、及び旧宗教の形骸を支持せる人々をして、彼等が宗教の形の下に支持説法せる所の物は、其実宗教に非ざるのみならず、人の真宗教を領[りょう]するを妨[さまた]ぐる大邪魔物[だいじゃまぶつ]たるを悟らしめざる可らず、而して此真宗教こそ、既に人心の中[なか]に在りて、只能く人の災害を救うに足る者なるを知らしめざる可らず、

されば人の救済の唯一方法は、人が其良心中に活ける真宗教と配合するの妨げとなるべき事を為さざるに在り



※都合により、第九章に続き本章についても、註を(ほぼ)省いた形で一旦UPします(近日中に追加予定ではあります)。

ただ、部分的に註釈的なことを書いておきますと。

※「基督が十二使徒に教えたる言葉」……ディダケーのこと。

ここで引用の文章は第1章3節の最後あたりから採っているようです。
ちょうど大変に良い紹介ページがありましたので、以下に掲げておきます。


※「弟子は其師の上に在らず……弟子は其師の如くなるを以て十分なりとす」……「マタイによる福音書」10:24-25 の部分的引用と思われます(ルカ 6:40 にも類似の記述あり)。
以下、「マタイ」の該当箇所を引用(新共同訳)。

10:24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。 10:25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。