幸せの青い鳥なんていない?
昔は良かったよねーという言葉を耳にする。
歳を重ねるにつれて、自分自身の口からもよく出るようになった言葉だ。
問題なのは、具体的に何が昔の方が良くて、
今の何がだめなのか、それがはっきりとわからないこと。
過去の記憶は美化されるというが、本当にそれだけなのだろうか。
自分自身の変化なのか、環境の変化なのか、
では、何を変えればあの頃のようになるのか。
今よりも良いものがあると断言できる気持ちはあるのに、
その差分がわからない状態。
それは、ただただ、雲を掴めないことを知らずに、必死で雲に手を伸ばすような、
虚無を掴もうとしているような。
そんな、意味のない作業なのかもしれない。
新卒で入社して、まだ日が浅かった頃のMTGで聞いた言葉が、
今でも強く心に残っている。
「幸せの青い鳥をあちこちと探し続けても、幸せの青い鳥なんていない。
幸せの青い鳥は、自分で創るしかない。」
当時の私の頭の中では、なぜかこの言葉の”幸せの青い鳥” が ”居場所” という言葉に変換されていて、
「自分が幸せを感じられる”居場所”は、探し続けても見つかるものではなく、
自分が今いる環境を、自分が幸せを感じられる”居場所”に創りあげるしかないんだ」と気がついた。
どこに配属されても、どこにいても、
そこが自分にとって、快適な空間となるように。
その空間の一員として、工夫をして、居場所をつくりあげてきた。
その空間から離れていく人は、逃げている人だと思っていたし、
離れる決断をさせてしまった空間にも問題があって、改善していかねばと思っていた。
私自身は、ずっとここに居続けて、ここを良くしていこう。そう思って居た。
だけど。最近は、自分でも驚くほどに、今の空間に物足りなさを感じて、
物足りない空間を変える気力も湧かなくて、それが不思議で不思議で。
ただ、離れようかなという気持ちが強く湧いてきた。
その気持ちの変化の要因がわからなくて、
私は何から逃げようとしているのかと考えたけれど、別に何も逃げる対象もいなかった。
昔から人生のバイブルとしている本の一節にこんな言葉がある。
「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、
後ろめたく思う必要はありませんよ。
サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。
シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」
場所を変えることは、逃げではない。
今までの私がシロクマだったなら、北極で、どの氷の上が快適かな?というように、
楽に生きられる場所の中で、より快適な居場所を創るために工夫をしてきていた。
これは、やるべき努力で、あっちの氷の方が良さそう、
いや、あっちの氷の上の方がなんて言っていても、最適な場所は見つからない。
だけど、自分自身も環境も変化し続けるものだから、
もしかしたら、私がシロクマじゃなくなったのかもしれないし、
今いる場所は、氷が全て溶けて、北極の世界ではなくなっていたのかもしれない。
そんな状況の変化の中で、場所を変えるということは、
それは、逃げではなくて、的確な判断なのだと思う。
逃げなのか、的確な判断なのか。
この線引きが難しくて、自分の選択に迷っていたけれど。
だけど、今いる場所で生きることが、苦しいのなら。
もう少し、楽に生きられる場所を選ぶべきなのだと思う。
世界は、とんでもなく広いのだから。
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