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性と社会不適合と繊細さと

わたしは、女である自分をころ そうとしたことがあります。

自分が女であることで痛手を負った(ように感じた)り、消えない傷を付けられた(ように感じた)り、とにかく女であることで重大な被害を受けていると感じたためです。

わたしは、女性である自分を、自分が女性であることを呪っていました。

同様に社会不適合者である自分、「繊細さ」とも表現される 人一倍敏感な気質を持ち 『普通』のことが満足に出来ない自分も、人間として不合格のような気がして、消えてしまえばいいと思いました。

ありのままの自分という存在に、ずっと背を向けた状態で生きてきたのです。

自分を呪ったままの状態というのは、当然生き辛いものです。

不思議なもので、自分に呪いをかけると 世界に呪われるのです。

自分自身に対する思いや扱いを現実が映し出すように、呪われたような出来事が次々と振りかかってきました。

「どうしてわたしだけがこんな思いをしなきゃいけないの?」
「お父さん、お母さん、せっかく産んで育ててくれたのに、他人にこんな酷い扱いをされてごめんなさい」

当時のわたしがいつも思っていた気持ちです。

いつかすべてが変わる日が来ることを夢見ては絶望する、そんな地獄のような毎日が続きました。

どこからどう見ても 悲劇のヒロインどころか、みじめで可哀想で逃げ場がなく、絶望しかなかったわたし。

今回経緯は割愛しますが、そんなわたしの世界を変えた 自己肯定の奥義ともいえる手法が『性の受容』そして『生まれ持った体質、気質(繊細さ)の肯定』でした。

いつか誰かが「変容は受容から始まる」と言っていました(これはいつも胸に留めている言葉です)。

長い間受け容れられなかったものを 受け容れたいと願ったとき、わたしの世界が音を立てて変わり始めたのです。

人生のほとんどの時間、心の奥で燻っていた長い闘いが、終わったのです。

自分の性や体質を認めるというのは 自分を許すようで、逆に自分自身に許され 無条件の愛でやさしく抱擁されたような感覚になりました。

そしてこの時に「この自分で生きるしかない」という覚悟が決まったように思います。

呪いが解けた瞬間です。

忌まわしいとさえ思っていたものが、本当は天からの授かりものであり無償の愛でしかなかったことを知りました。

絶えず大きな愛を注いでくれていた自分という存在に対して「人間として不合格」というジャッジメントを下すなんて、おこがましいにも程がある…… どちらかというと謙虚で善良な人間であると思ってきた自分が、実は恐ろしく冷徹で傲慢な人間だということを知り愕然としたのです。

「神はわたしを見放した。見放したどころか最初から気付かれもしない。わたしは愛されない子。」
ずっとそう思ってきました。

でも、わたしを見放していたのは、他でもないわたし自身。

神は、ずっとわたしの中で待っていてくれたのです。わたしが自分を愛せないときも、わたしが成長するまで ずっと待っていてくれたのです。

自分を苦しめる不幸の元だと信じてきたもののすべては、あらゆる幸福が無限に湧き出る可能性の源泉だったのです。

何かが出来ることや 何かを得たこと、誰かにうらやましがられることでつけられる自信は、華やかに見える反面、実はとても脆いものです(それももちろん尊いものですが)。

人より劣っているように見える部分や 何かが欠けているように思える自分、不幸で惨めで間違いだらけの自分、丸裸の自分をいたわり愛することで手に入る安心は、例えば今より身体が不自由になったり 病気になったり、大切なものを失ったとしても、折れることはないでしょう。

「わたしの世界に、わたしより大切なひとはいない」

そう思えるまで自分自身を愛せたら、周りの人たちや、矛盾するようですが 自分以上に大切に思うひとのことも、もっともっと純粋に愛せるのだと思います。

そしたら、自分の周りに 幸せなひとが、ひとり またひとりと増えていくでしょう?

だから、自分をどこまでも愛し大切にすることが、個人に出来る最小に見えて最大の社会貢献。

ひとりひとりが自分を大切にして 溢れた愛が循環したら、世界はきっと もっと素敵になる。そう思うのです。

使い古された言葉かもしれませんが、自分とは 自分にとって唯一無二のパートナーです。

自分が自分を責めるときにも、構わずに愛し続け 祝福し続けてくれる唯一の存在です。

何度絶望の淵に追いやられても、その度にわたしはわたしを迎えに行くでしょう。何度でも、愛を誓うでしょう。

このいのちが終わるその時まで、わたしは大切なこのパートナーと 二人三脚で生きていきたい… そんなことを思ったら、胸がじんわり あたたかくなりました(﹡ˆˆ﹡)

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