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『ヘルプ〜心がつなぐストーリー〜』とわれわれのしごと。

『ヘルプ〜心がつなぐストーリー〜』(2011)を観た。

まずはあらすじから。

1960年代の米ミシシッピを舞台に、白人女性と黒人家政婦たちの友情が旧態依然とした街を変革していく様子を描いたベストセラー小説の映画化。南部の上流階級に生まれた作家志望のスキーターは、当たり前のように黒人のメイドたちに囲まれて育ったが、大人になり白人社会に置かれたメイドたちの立場に疑問を抱きはじめる。真実を明らかにしようとメイドたちにインタビューを試みるスキーターだったが、誰もが口を閉ざすばかり。そんな中、ひとりのメイドがインタビューに応じたことから、社会全体を巻き込んだ大きな事態へと進展していく。主演はエマ・ストーンとビオラ・デイビス。監督は「ウィンターズ・ボーン」などにも出演している俳優のテイト・テイラー。第84回アカデミー賞でオクタビア・スペンサーが助演女優賞を受賞した。

映画.com『ヘルプ〜心がつなぐストーリー〜』より

根強くはびこる黒人差別の問題を切り取った作品は数あれど、それを「女性の闘い」と絡めて描いたところに本作の特徴がある。

そのため、主要キャストは全員女性。当時の男性にとってほぼ無縁の家事、子育ての世界について描くにあたり、男性はあくまで「外野」とされ、本筋に介入してくることもない。

そして人種を超えて、母親とは何か?というテーマも内に秘めている。
主人公の友人ヒリーをはじめ、悪役となる街の上流階級の白人たちには、全力で「母親失格」として描かれている。

つまり、母親らしさには血のつながりなんて必要ないんじゃない?ダメな母はずっとダメだよと突きつけているような描き方だ。

こうしたいわば、絶対的な存在としての母性の否定は、同時期に制作された『チョコレートドーナツ』などにもみられるものの、日本にはイマイチ浸透していない気がする。

母性神話がなんとかならない限りいろんな問題解決しないんじゃない?という持論を有するわたしとしては、このあたりは非常に興味深かった。

さてさて、前置きが長くなってしまった。

わたしとしては、それ以上に興味を引いたものがある。
それはメイドたちへのインタビューのくだりだ。この当時、黒人のメイドたちが意見を表明することは命の危険を冒すも同然だった。

そのため物語の当初は、主人公によるインタビューの依頼に対し、多くのメイドたちは口を閉ざす。それどころか、他のメイドに対しても同調するよう「抑圧」もする。

つまり、ここでは、黒人のメイドたちという社会から抑圧されるマイノリティのコミュニティの内部で、さらに当事者たちが抑圧しあっているという「二重の抑圧」ともいえる構図が浮かぶ。

こうしてうまれる「語り得ない」当事者たち。
そうした現実を前に主人公は、インタビューに応じてくれる人びとのみで執筆を進めるものの、出版社から「人数が足りない」と指摘されてしまう。

このひと声、われわれのようなマイノリティ研究に取り組む「業界」(世界?)にとってかなり耳の痛い問題である。

マイノリティ研究やその方法論としてのインタビューにおいて、永遠の課題は3つあるといわれる。それは「妥当性」「信頼性」「代表性」である。

その対象者を選定したのは妥当なのか?
その対象者は信頼できるのか?
その対象者は(対象者の属する)集団を代表しているのか?
といった具合に。

この3つの問題を知るや知らずか、その帰結を不条理劇として描いたものが、黒澤明の『羅生門』(1950)である。
そのためわれわれの業界では、こうした問題に起因して、それぞれの人びとがそれぞれの秩序を語りはじめ、「共通認識」といえるものが得られないことを、「羅生門問題」とか「羅生門効果」という。

上記3つの問題に応えるためにしばしば用いられるのが、対象者の人数を増やし、視点を確保するという手である。
劇中で出版社の担当者が、主人公に人数を増やすよう要求したのはこのためだといえる。

軽くネタバレをすると、ひと悶着あってインタビューに応じてくれる対象者が増えていき、最終的に数は確保されていく。

つまり、主人公は「妥当性」「信頼性」「代表性」の問題について、数で応えたのである。

ただ、対象とするマイノリティ集団の人数が極端に少ない場合にはこうした方法はとれない。そのときこそ、その集団をあつかうということが、どういう「意義」をなすのか、謙虚に、丁寧に、禁欲的に応えることが必要となる。

さて、劇中において実際に注目されていくのは、メインキャストである2人のメイドによる「語り」。やっとの思いでインタビュー対象者に名乗り出たにもかかわらず、これではなんのためにインタビューに応じたのかわからない。

もちろん、あくまで映画であるがゆえの描写であり、そこに不満があるわけでもなんでもない。

しかし、もし、われわれの取り組む研究において、このように特定の人物の語りを強調するようなことがあれば、相対的に軽視されてしまったそのほかの対象者からの反発は免れえない。

こうした意図せぬトラブルや反発を回避するために、われわれが取りうるのは、発表する前の時点で、対象者に向けて説明を尽くすことである。むしろ、これ以外に方法はないとさえ言える。

劇中においては、インタビュアーとなる主人公・スキーターは、対象者から全幅の信頼を得ていた。だからこそ、インタビューの実施と執筆において「荒技」が可能だったともいえる。

あれほどの信頼(いわゆる「ラポール」)を得ていれば、怖い物なしだ。ものすごく羨ましい。

そして最後にひとつ。
原作者は60年代のアメリカ南部で「ありえたこと」を描くことにこだわったという(メイキング参照)。
そう、本作が描いたのは「実際にあったこと」ではない。つまりフィクションだ。

だけれど、確実に「ありえたこと」であるため、それを「虚構」と断じることはできない。
コレこそが、本作のような社会問題をテーマとする作品がもつ強みだ。

われわれの研究は、「あったこと」が確認できなければ、どうしようもない。
それに対して、こうした作品は、(たとえ空想だ、自虐的だと断じられようが)「ありえたこと」を徹底的に掘り下げることができる。

実際の事件をモチーフにしている場合でも、最終的には架空の設定に落とし込むことで、当事者たちだけの問題に終わらせないように工夫がはかられているのだ。

この技が使える業界が羨ましいとさえ思う。

けれど、わたしはわれわれの範囲内でできることをやるしかない。

「当事者」というものが遠く感じてしまうこの時代だからこそ、われわれが動く意味がある。そう信じたい。

なんだか重くなってしまったけど、映画としては非常に面白かったし(20歳ちょいのエマストーンとインテリ路線になる前のジェシカ・チャステインがよかった)、素晴らしい作品だった。ぜひぜひ、多くのひとに観てもらいたい。

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