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「才能」とは何だろうか、という話。


もう何年前の話だろうか。

その甘美な響きに翻弄され、自分を酷く"ちっぽけなもの"だ、と感じていた青春時代が、溢れんばかりの蝉の声と共に蘇る。

「才能」

労せずして、凡人ではない"何者"かに自らを高めてくれる魔法のような概念。漫画「ワンピース」で、主人公のルフィが「悪魔の実」を食べゴムゴムの力を手にしたように、"才能"という果実をその身に取り込み、意のままに操ることのできる人達を、私は羨望の眼差しで眺めていた。

何も俳優やスポーツ選手になりたかったわけではない。手を伸ばせば届きそうな、地に足ついた才能。足が速い人、字が綺麗な人、モノを知っている人、楽器を演奏できる人、気遣いのできる人。身の回りの才能人達が身に付けているような、ちょっとした光り物が身に付けられればそれで良かった。学校という舞台上で、一人イミテーションの宝石では、いかにも具合が悪い。時にそんな劣等感をに抱いていたように思う。

そんな悩める才悩人も、数年経てば一丁前に金を稼ぐようになっている。あの頃、丹念に造り上げた「大人」というイメージと、鏡に写る「自分」との差。埋めようの無いその「差」に、何だか笑ってしまいそうになるのは私だけではないだろう。近頃では、旧友との再会も、待ち通しく思うようになった。

時の流れが戻っているのか、進んでいるのか、一体どちらか、よくわからなくなる感覚。もちろん、口にする酒が、上等な大吟醸に変わったからではない。たかだか地球の裏側に移動するだけで昼夜を違えてしまう脆弱な脳の処理能力は、その何千倍ものスピードで過去を再構築する作業工程で、混乱してしまうのだろう。「当事者」から離れることで、第三者的に当時の記憶を補える。幼児達が「プラレール」で遊ぶように、いとも簡単に線は合流する。何のことはない。私も貴方も立派な才能人だったのだなと、今ごろになって笑い合うのだ。

***

誰もが皆、才能人でありながら、「才能」に悩むことの矛盾。私たちを悩ませる、「才能」の正体とはなんだろうか。それは、とても地に足ついた概念に違いない。

私は、才能とは「無意識にとる行動のパターン」ではないかと思う。「無意識にとる行動」だから、もちろん誰もが1つ以上、必ずその身に内包しているはずだ。それは、例えば「とにかく考えてしまうこと」であり、「とにかく動いてしまうこと」であり、「とにかく笑いを我慢できないこと」であり、「とにかく突然歌いたくなること」であり、「とにかくどこでも寝られること」でもある。私たちが「才能」と誤認し、羨望してしまいがちな多くの才能らしき観念は、これら具体的な"行動パターン"の組み合わせの結果に過ぎない。

もちろん、才能は"万能"ではない。蛍や鮎が綺麗な水を求めるように、才能にもベストな生息環境がある。それ以外の環境では、意識的にあらねば貴方を保つことはできない。貴方は、他者の視線を恐れて、才能に蓋をしていないだろうか。あるいは、貴方の足元で貴方を必死に支えんとする才能に、そもそも目を向けているだろうか。

かつての私のように、貴方が「才能を探す才能」というものに恵まれていない可能性は、残念ながら低くはないだろう。それでも、気にする必要は無いはずだ。貴方の周りの才能人の誰かしらは、そうした才能に恵まれている可能性が高い。人は得てして、自分自身を見つめるよりも、他人を見つめたり、ちょっかい出したりする方が得意なものだ。

もし貴方が、それを「受け入れる才能」に乏しいのなら。その時は、心許した旧友と過去を振り返ることをお勧めしたい。誰だって、自分の行動を指摘されることは気恥ずかしい。それでも、過去の自分の話なら、今の貴方と切り離すことができるはずだ。肝臓が許すのなら、お酒の力を借りたって良い。そうして、少しでも生きやすい世の中になっていけば良いと思う。

「さぁ才能に目覚めよう」

当時に読んでいた、スローガンのようなこの本のタイトルを才脳人に贈りたい。

胡散臭いタイトルの中で、ひときわ胡散臭い「才能」の二文字。カッコ書きで振られていた"ルビ"が、何年経っても忘れられない。

そこには「じぶん」という3つの平仮名が、少し気恥ずかしそうに並んでいた。

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