留学の真の果実は「語学」ではない。
12週間のイギリス生活を通じての結論が、「語学を学ぶために留学は必須ではない」というものだった点に特段の戸惑いは無い。地道な予習、実践、復習。それらを一体 "どこで" やるべきか、という問いに対し、「留学」の二文字は致命的な影響を及ぼさない。やはりというか、語学に魔法など無いのだ。この点に驚きはない。まぁ、そうだろうなと。
もちろん、近道になる可能性はとても高い。現に、留学前、ほとんど外国人とコミュニケーションを取れなかった私が、「12週間」という比較的短期間の内にCFERという英語技能評価方法でListening・Spoken ProductionでB2レベル、Writing・Reading・Spoken Interactionに至ってはC1レベルを手にできた。これは、紛れもなく最高の環境のおかげである。根気の無い私がいつまで日本で努力したとて、このレベルまで到達することはなかっただろう。得てしてダレてしまいがちな語学学習に、全ての物事から解き放たれて集中できることは、モチベーションの上でも近道だ。自己投資でも会社主催の研修でも、このメリットは変わらない。行ってしまえば、環境の方から近道へと誘ってくれる。あとはやるのみだ。
といって、語学留学で語学が身につきます、等と書きたいわけではない。では何を言いたいか。本題に入ろう。
語学留学の真の果実は「語学」ではない。
これが、もう1つの結論だ。矛盾するようだが、語学力が伸びる・伸びないということは、語学留学にとり、実に些末な話である。インターネットの普及により語学を修めるハードルもコストも劇的に下がった今、極論、発音矯正のアプリケーションとスクリプト付き動画、たゆまぬ努力の三点セットで、 "通じる英語" を身に着けられる。語学修得上の高速道路を通行すべく100万円以上のお金と12週間という期間を叩く価値があるかどうか、その価値は今も体感できないくらい緩やかに下がり続ける。(ちなみに現地での生徒の感覚や同様の留学経験者達の話から推測するに、レベルアップを実感する上で、ホームステイ+少人数制講義の元、語学の習熟度に寄らず約2ヶ月を要する。)
それでも、また「やはり」のと思う。こと社会人にとり、これ程割に合う自己投資は無い。会社投資ならなおのこと、今の仕事を手放してでも掴むべきチャンスだ。例え語学力の成長が一切無かったとしても、一度海外に滞在した方が良い。
昨今「多様性」という言葉を耳にする機会が増えた。ハラスメントやSDGといった言葉も同様だ。自分が小さかった頃に比べて、信じられないくらいの多様性が許容されている。「今の時代に生まれていなければどうなっていただろうか」と自問し、背筋が寒くなる。未来の子供達には朗報だが、今後も一層、劇的に進展していくだろう。
それでも、日本で味わえる多様性など、まだまだ知れている。程度の差はあるが、それでも知れている。これは、四方を海に囲まれている点、移民政策に消極的である点、日本文化が醸す独特の同調圧力という三点が混ざり合っていることに起因するのではないかと思う。例えば、公共の交通機関においてほぼ全ての人がだんまりを決め込む国というのは珍しい。我々は「陰鬱とした時に騒がれて気分を害されないため」に、「今全力でお喋りをする快楽」を必要コストとして保険を付保している。効用の全体総和を希求する文化は、「秩序立った」を意味するsystematicを想起する。「建築物」と「コミュニケーション」における関係性が逆転してしまっている点が実に興味深い。
ヨーロッパで驚いたのは、女性にご馳走できない点だ。たとえ稼ぎの少ないと思われる学生相手でも。「ご馳走する」と言えないほどの、1ポンド(140円くらい)に満たないわずかな金額でさえ。ご馳走されるとは、明確に下に見られる行為であり、東洋的な「恥(shame)」を感じる施しなのだ。恋人間でも同様である。 平等を自認できるまで根気強く会計を分割する姿が、何とも印象的だった。 「次は私が…」ということもほぼ無い。知らないうちに奢られていたことを知れば、即日返金される。
一緒にプレゼンテーションの準備をするとしよう。滞在期間中、チームプロジェクトとして11回のプレゼンテーションを行ったが、中々どうして骨が折れた。日本では考えられないような不満が続出するのだ。語学学校の決めたテーマに対して「つまらないからやりたくない」とか、「そもそもプレゼンテーションをしたくない」とか、平然と述べてくる。知ったことではないのだが、彼等をモチベートできなければプレゼンの準備や練習に移れない。
無事にモチベートしたとして、「具体的に何に取り組むか」もしばしば論争の対象になる。熱心なフットボールファンは「フットボールを題材にしよう」と主張し、環境保護論者は「気候変動についての方が深刻な問題だわ」と返す。「たかが授業、どちらでも良いではないか」等と述べようものなら、「たかがとはなんだ!」と火種が一つ増える。議論をマネジメントできなれば、準備や練習に移れない。
これらは「中身の議論」や「練習」の前段階の話だ。全員納得して決めた担当と期日通り、成果物が出てくる可能性は稀である。「昨日は飲みに行ってたから時間がなくて」となれば、スケジュールを修正し、講義中にその点を議論しなければならず、貴重な「講師からフィードバックを得る時間」が減ってしまうかもしれない。そんな多様性に毎日遭遇する。朝一・昼一の講義は人気がない。起きられないとか、昼御飯をゆっくり食べたいとかそういう理由だ。
それが良いとか悪いとか、そこは重要ではない。ただ我々は其れぞれに違うだけのことだ。多様であるに過ぎない。外見も価値観も境遇も何もかも違っていて、何とかその違いを分かろうとする過程で、信じていたものを壊すか壊さないかの葛藤みたいなものが見えたり、自分もそれを経験したり、そうやってギリギリのところでやっと互いを分かりあえるのだ。その経験にこそ価値がある。彼等やそのマネジメントを思えば、日頃の業務上のコミュニケーション等、何と楽なことか。 語学などおまけでしかない。
ありがたいことに、現地の色々な人が私を評価してくれた。もちろん、イギリスという国はそういうお国柄だし、先生もパイプ作りの延長での気遣いもあっただろう。それでも、18歳の学生から50歳の営業マネージャーや医者まで、異国の地で共に学ぶ仲間として私と接し、私の強みを素直に評価してくれた点を喜びたい。
勿論、彼らが私のことを完璧に理解したわけではない。私も、彼等を理解できない時がままある。そもそも、無数の揺らぐ要素から成り立つ総体としての一個人をまるっと理解するのは無理な話だろう。しかし、それで良い。理解できないことへの抵抗感も同時に消え失せたのだから、それで問題ない。だから私はマネジメントしきることができた。毎週が「あたかも本当のプロジェクト」であるかのように取り組むことができた。 何年後かに困難にぶつかった時、この経験が私を次の道へと誘うだろう。 例え学生時代に留学経験があったとしても、社会人になってから改めて行く価値がそこにある。そう思う。
語学留学の真の果実は語学ではない。この矛盾した命題の意図する「真の果実」とは、価値観がぶつかり合った時、自分と他人のそれをどのように修正していくか、というマネジメント能力である。そのためにこそ、お金や時間を使う価値があると、12週間の経験から強く感じている。私を大きく育んだ第二の故郷に、感謝しきりである。
何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)