上司は先生ではない、と気付いた日。

入社二年目のある日。「そんなものかな」と、妙に腑に落ちた。職を変える・変えない以前の、大袈裟に言えば、キャリアにおける1つの転換点である。

驚きより、諦めに近かった。社会人を2, 30年経験しても「先生」にはなれないのかと空虚しい気持ちになりはしたが、良いきっかけでもあった。自分の先生は自分で創ろう。「Where there is a will, there is a way.」とSkypeのプロフィール欄に表示していたAlabama帰りの友人の屈託ない顔が浮かんできて、不思議と前向きでいられた。自分の中の、自分だけの「先生」。それを形造る作業行程で自身と向き合う行為こそ人生そのものなのだろう、と妙に納得した。

他人の「先生」になることはできない。後進の指導にあたり、一つの視座を提供することにそのスタンスを留めてこられたのは、明確にこの諦めのおかげである。「教える」という快楽的作業は、人の心の封を裏表両面の感謝の念によって解きほぐし、何とも言えない自己肯定感を醸成する。しばしば、私達は押し付けがましく教えてしまう。

とはいえ、当時の僕は勿論、今の私、未来の「先生」でさえ、他者の問いに対する唯一無二の解を持ち合わせているわけではない。ゆえに「僕ならこうするし、一度はこの方法でやってみることをお勧めするけど、やってみて違うと思ったらより良い方法に変えてみてね。」という具合に、私の来た道を通ること無くシミュレートしてもらうことこそ先達の役割なのだ。ソクラテスを気取る訳では無いが、その時その瞬間の真理のような物など、誰にも分からないのである。

僕が上司に求めた「先生」とは何か。上司には「全てを理解し、最適な解を提示し、いつでもチームを前に正しく導いてくれる存在」であって欲しかった。眼前に広がる無秩序を綺麗に掌握し、ロールプレイングゲームの魔法のように華麗に払い除けて欲しかった。けれど、僕の見ていた景色は、全体のほんの一部である。その極僅かな経験範囲でさえ、渦巻く観念を言語化する力を持たない結果、数少ない概念でもって物事を極めて単純化して認識しているに過ぎなかった。目まぐるしく移り変わり続ける実景色は、僕の見ていたものより、もっとずっと複雑である。そういう経験は、実のところ誰にでもある。

日本型雇用の特徴として、4~5年毎に職種や担当製品を変えてジェネラリストを育成する、ということが挙げられる。特に伝統的な日本の大企業においては、事業成功の正否はコミュニケーションにかかっていると信じられていて、能力や専門知識と同等以上に、「コミュニケーション」に腰を抜かすほどのコストをかけている。先の人事制度も、コミュニケーションの円滑化に主眼がおかれていることは明白だ。他国では稀な、定時外(飲み会、ゴルフ等)を重視する思想も、根は同じである。

良し悪しの議論は脇に置くとして、そのような人事制度の元では、専門知識を有さないままマネージャーに抜擢されるケースが多くなる。職種を掘り下げていくジョブ型の人事制度は、まだまだ一般的で無い。過去の経験を頼りに、チームメンバーとのコミュニケーションを通じて、時には全く未知の分野に挑まねばならない。その受動的な勇者に「先生」を求めるのは酷、というより無理である。

あの日の僕は、諦めの感情をそのように整理し、上司の役割を「権限を有する人」に再定義することにした。そんなことだから、勇者になりたかったわけではないのだが、失敗する権利を一つでも多く得ておこうと、挑戦することに貪欲になった。もし。この変化を、あの上司が意図的に呼び起こしていたとすれば。その仮定の元で、これから「先生」と呼ぶことにしよう。

尤も、答え合わせは不要だ。その答えさえ自分で決めていこうと、あの日の僕は決めたのだから。何が、いつ、誰に幸いするか、人生分かったものではない。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)