即興で掴む「自分らしさ」

学生時代「スピッツ」というバンドが好きで、よく曲を聞いていた。

ところが、「なぜどのように良いのか」の説明を改めて試みようとしても、なかなか上手くいかない。どちらかと言えば心をマイナス側に引っ張るものが多い。ハイトーンで柔らかい歌声はもちろん魅力的だが、それは「決め手」ではない気がする。では、「歌詞」なのかといえば、歌詞も妙に大人びた婉曲的なワードが並び、なんとも分かりにくい。タイトルも「ロビンソン」みたいに何度考えてもよくわからないものが多くて、もはや僕は「何となく」彼らが好きだった、と認めざるを得ないのだ。

「このようなスバラシイものを、一体どうやったら考えられるのか…」なんて、ついつい自分を相対化し、卑下してしまいがちなのだが、よく練られたと思われるものほど実は「テキトー」に生み出されたりするものだから悩ましい。例の「ロビンソン」という曲目も、仮タイトルとして適当につけたものがそのまま使用されているそうだ。以前「ポルノグラフィティ」というバンドのライヴを見に行ったときに発表された新曲のタイトルが、後日正式発表されるときに変わっていたこともある。

政治家が目先の具体的な政策(作戦・戦術・兵站)について、その意見を変えたりすることがままある。それを「筋が通っていない」と批判する人も多いけど、僕は別にどうでも良いことだなと思ってしまう。考えなんてものは前提が変われば変わってしまう方が健全だし、極論変わるべきだとさえ思う。(※1)少なくとも、より納得感のある代案提示ができないのなら、我々に彼らを批判する権利など露ほども無い。

これはビジネスの場にも言える。「説明材料が欲しいんだよ。」なんて目上の「いかにも」なやりとりを入社当時はシニカルに聞き流していたが、30を間近に控えて冷静に考えれば、斬新なアイデアより意思決定のプロセスに適切に載ることの方が重要であるように感じる。説明に足らないアイデアは、詰まる所単なる夢物語に過ぎず、その無邪気さは誠実さの対極だ。だからこそ「まぁ、こんなもんかな。」と軽い気持ちで始めてみて説明材料をせっせと集めてゆくことが大切なのだ。意思決定のプロセスに変更が必要なら、それはそれで都度変えてゆけば良い。

我々は物事を上辺で理解する。このことは「二番目」の認知度がぐっと下がることからも容易に理解できる。例えば、「Everest」や「富士山」は皆知っているが、「K2」や「北岳」はご存じだろうか。(それぞれ、世界・日本で二番目に高い山だ。)土地の面積、ヒットの本数、CDの売上…と、まぁ何でも良いのだが、結局その程度の浅はかな理解なのだ。だからこそ、机でウンウン考えるのは10分くらいに留め、とりあえず仮決定し、現場へ向かう。この繰り返しこそが、唯一浅い思考を深めていくことにつながる。『大日本沿海輿地全図』の驚くべき正確さは、伊能忠敬達の小さな1歩の積み重ねによって実現された。(※2)

私のnoteは、私の頭の整理のために書いている。今でこそ、ご想像以上に申し訳ないくらい気楽に書いているのだが、今年の1月に初めて2つのノートを書いた頃は、えらくしんどかったなぁと苦笑してしまう。それは、内容や文体、構成を頭で考えようとしすぎていて、簡単に言えば格好をつけていたのだと思う。その半年後に「こんな感じでも良いのかな。」と着飾らずに3つ目のノートを書き、幸い多少の反応もあったので随分書くのが楽になった。今となっては随分と恥ずかしいのだが、まだ消さずに残しているので気が向いたらご笑覧頂きたい。

何事も、いつか訪れるそんな瞬間までとりあえず気楽にやってみる。そんな態度はまさに「テキトー」の体現だが、それでこそ初めて「自分らしさ」というものが発揮されるのではないかと思えてならない。そんなことを考えながら、また「テキトー」に書いたnoteを見て、ふーっと安堵している。




(※1)
戦略(「大義」や「信念」といった極めて中心的な骨格となる要素)だけは容易に変えてはいけない。

(※2)
「巨木の年輪が一対で形成されることは地球46億年の歴史の中で恐らく一度も無かったと思うし、当面は品種改良されることも、そのような必要もないのだろうと思う。」から差し替えました。

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