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「竹」が好きだ、という話。

最近では食べる年が少なくなった「おせち」。昔は祖父母の家にいくと、デーンと玄関に重箱が鎮座していて、夜が明けるのがひたすらに待ち遠しいものだった。お目当ては「筍」。あの何とも言えない歯ごたえ、みずみずしさ。2段目の数の子と並ぶ、至福のごちそう。僕は、「から揚げ」とか「ハンバーグ」といったものに全く興味のない少年だった。幼少期の味覚は、明確に食感で形成されていた。

当時、両親は共働きで、小学校を出ると「学童」に向かった。痛いな、とボヤキながら乗りこなした竹馬が懐かしい。竹馬”風”の遊び道具ではない。本物の竹を縛って作る、竹馬。誰がどうやって作ったものかうろ覚えだが、それはサッカー等と変わらない田舎の子供たちの遊戯だった。親指と人差し指の間に擦れてできるマメは、あるいは「何とかなる」という信条の基礎を形成したのかもしれない。

鎌倉に「報国寺」という寺がある。「たらちねの母」のように、報国寺といえば竹だ。由緒正しき竹の寺は歩いていくには難儀だが、その価値は十分にある。観光客がいても不思議な静けさをおびる境内。竹が音と熱気を吸って空高く吐き出しているように錯覚する。訪れたのは今から4年前だったろうか。お気づきのとおり「文章を書く」というマガジンの表画像は、報国寺の竹林である。

どんな風もしなやかに受け流して、真っすぐ伸びていく竹。己を飾らない無骨な竹。成長するために、四方に枝葉を伸ばしたりドギツい着色をしたりしなくて良いのだと無言で言われているようで、何となく背筋が伸びる。(姿勢が良いと褒められるのは、そのせいだろうか。)

実は、竹には花が咲く。派手な花ではないし、何のために咲くのかもよくわからない。何せ、60年~120年に一度の珍事だ。いっそのこと咲かなくても良さそうなものなのだが、「校則の厳しい学校でこっそり試みるお洒落」のような茶目っ気が何ともいじらしい。その事実を知った時、ますます竹が好きになった。

ふと、思う。彼らは今頃どうしているだろう。20年近く経つのか。無論、あの頃のまま変わらぬはずもないわけだが、同時に想像することもかなわない。「たけやぶやけた」なんて回文を、無邪気に口走る絵面ばかりが浮かんでくる。そういう関係を、いったい何というのだろうか、と思ってカタカタとキーをたたくと、コンマ数秒で計ったような文字が躍る。「竹馬の友」だなんて、色々と考えさせられる故事が浮かぶ。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)