銀河鉄道の夜 あれこれ考察
宮沢賢治と法華経について、前回の投稿で書かせて貰いました。
そのことが切っ掛けで、何年ぶりかで改めて銀河鉄道の夜を読み返してみました。
初読は小学校5年の夏休みです。当時はテレビアニメの銀河鉄道999が放映されていましたし、その影響もあって、夏休み前に学校で配られる、新潮文庫の100冊という小冊子の中から選んで購入したのが最初。その後も何度か読み返してきました。
私が読んでるのは新潮文庫の「新編銀河鉄道の夜」
この本は短編集です。銀河鉄道の夜もページにして78ページほどの短編ですが、短編にしては長いほうですかね。
賢治の書いた童話の中でも長い方ではないでしょうか。
他には「よだかの星」「セロ弾きのゴーシュ」など全部で14編の物語が納められています。
さて、改めて「銀河鉄道の夜」を読んでみて再確認しましたが、ほんとうにメタファーが多い作品ですね。抽象度が高い作品だと思います。
作中に書かれている事が、一体何の事を表わしているのか?どういう意味を持つのか?について、あれこれ考察や思いつきなど、私の個人的な解釈を今回は書いていこうと思います。
あとから別の知識が入ってきて、今後も解釈が変わっていくとは思いますが、今の自分が思った事、感じた事、考えた事などを気楽に書いていこうと思います。
一、午后の授業
と、先生がクラスの皆に聞きました。「ぼんやりと白いもの」とは天の川銀河の事です。
皆が元気に手を挙げる中、ジョバンニは一旦挙げた手を直ぐに降ろしてしまう。ジョバンニの迷い。
先生は一人だけ手を降ろしたジョバンニを指しますが、答えられず。
次にカムパネルラが指されるが答えず。
それを見て
「カムパネルラは答えられなかったぼくを気の毒がって答えなかったに違いない」
と推考したジョバンニが書かれていますが、本当でしょうか。なぜ正解を知っているはずのカムパネルラは答えなかったのか、作中ではカムパネルラの本心は明かされません。
この、天の川についての問いは、言い換えればこの世界がどのように出来ているのか?という問いでもあり、つまりはこの世界の仕組みや法則、いわば宇宙の真理とは何かという問いであると思えてきます。
そして、この問いは本当の幸福とは何か?という、後にこの作品の中に出てくる問いに繋がっていきます。
二人は、銀河の事は既に巨(おお)きな本で知っていたのです。
なのに二人は答えなかった。
何故ならこの問いは、本を読んで得た知識では解けない、人知を超えた宇宙の真理についての問いだから。
「知っているけど分からない」
仏教的に言えば悟りの事であり、成仏であり、仏の智慧だからではないでしょうか。
そして、ジョバンニの迷いは凡夫の迷いでありキリスト教的に言えば迷える子羊といったところか。
翻って、カムパネルラは元気に手を挙げたのに、いざ先生に指されると答えなかった。
答えないジョバンニを見てカムパネルラの中で何かが変化したからです。それはジョバンニを気の毒がってではないと思います。
知っているはずのジョバンニが答えないのを見て、はっと気づいたのではないでしょうか。本で得た知識だけで分かったつもりになっている自分に。(増上慢)
実はもう一つ、二人が銀河について答えなかったという描写を更に深堀りすることも出来ると思います。
「知っているけど分からない」という矛盾するような中道的な概念から
私は、三十四の非ずを連想してしまいます。
三十四の非ずとは、無量義経徳行品第一に書かれていて、仏陀の身体を讃歎する偈です。仏陀とは仏の悟りを開いた人の事でまさに、宇宙の真理を体得した人の事と言えるでしょう。
その身体は有に非ず無に非ず、因に非ず縁に非ず自他に非ず・・・
法華経に傾倒していた賢治がその開経である無量義経を知らないはずはありません。
ここまで深読みすると、ちょっとマニアックすぎますね(笑)
二、活版所
学校が終わり、皆が星祭の相談をしている中、ジョバンニは家に帰らず、活版所へ向かう、お金を稼ぐためです。
学校ではいじめられ、活版所の人も、出勤してきたジョバンニを冷やかします。ここでちょっと不思議なのは「虫めがね君」とあだ名されている事です。
そして、なぜ働いているのか、なぜ皆にいじめられるのか、この時点ではよく分かりません。
少し戻って午后の授業の章にはこう書かれています。
朝も働いているようです。なんの仕事かは後に出てきます。そして放課後は活版所で活字拾いの仕事。
このような境遇にあって、周囲の友達からは浮いてしまう存在になっている孤独な少年がジョバンニという事ですね。
活版所の仕事が終わり、銀貨を貰う時の記述
ここまでずっと寂しく辛い描写が続いてきて、このシーンでパッと明るい描写になりホッとさせられます。
こうして見ると、この章では生きる事の辛さや、つかの間の喜びなどが描かれております。現実の社会で生きる事の苦しみと喜びです。
それと、大きな銀河の話と対比した、辛い日々の身近で起きる話。
銀河の話を望遠鏡とするなら、身近な話は虫めがねですね。
虫めがね君とはそういうメタファーが込められているように思います。
でも少年が働かなければならない理由は分からないままです。この後もハッキリとは書かれませんが、ヒントのような記述はこの後の章で出てきます。
因みに活字とか活版所と言われても現在ではピンとこない人もいるかと思います。
平たく言えば印刷所。活字は鉛でできたハンコみたいなもので、原稿に合せて一文字一文字、小さい箱に並べる作業がジョバンニがやっている活字拾いです。
三、家
この章は、学校も仕事も終えて家に帰ってきたジョバンニとお母さんのやり取りが中心です。
この物語の季節は夏と言われています。活版所の仕事終わりが六時ですので、日が傾いていてもうすぐ沈むころではないかと思います。
お母さんとジョバンニの会話で、これまであやふやだった、ジョバンニを取り巻く事情が少しずつ明らかになっていきます。
・お母さんは体の具合が悪いようだ
・ジョバンニにはお姉さんがいる
・お父さんは北の海で漁をしている
・お父さんは監獄へ入っているかもしれない
・ジョバンニのお父さんと、カムパネルラのお父さんも友達同士
・カムパネルラの家にはアルコールランプで走る汽車の玩具がある
・ジョバンニは毎朝、新聞配達をしている
・カムパネルラの家にも配達している
・牛乳が届いていない
働かなければならない理由、周囲から浮いてしまいイジメられる理由。それらがなんとなく浮かび上がってきました。
お父さんは北の海に漁に出ているが、何か悪いことをして監獄に入れられているかもしれない。それで仕送りもできなくなり家計が苦しくなっている。
漁は良い時と悪い時がある。なので、お父さんに良からぬことが有ろうと無かろうと、家計は不安定だったのではないでしょうか。
その上、お母さんの病気により、お父さんは色々と無理をしているのかもしれません。
きっと、お父さんの事は町では噂になっているのでしょう。大人も子供もそんなジョバンニの家の状況を知って見下し蔑み面白がってイジメる。
そんな辛い境遇にあっても、健気に腐ることなく日々を生き抜こうとしているジョバンニ少年。
生きる事の苦しみ。生老病死の半分、生苦と病苦を受け止める少年の姿が浮かび上がります。
お母さんの病状は分かりませんが、死を意識するほど重いとしたら死苦も。
苦しみの集大成のようなジョバンニの境遇と言っていいのではないでしょうか。
届いていない牛乳を取りに行くついでに、星祭も見てくると言って出かけるジョバンニ少年。一時間半で戻ると告げて出かけるところでこの章は終わります。
ところで、新聞配達と活版所の仕事は関連していますね。
そして、そのことでジョバンニは最新のニュースに触れる事もできる位置にいるというのも何か意味があるように思えてきます。
長くなってしまったので、続きは又今度にします。
できれば一週間後に。
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