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やっぱり避けて通れない

レビュー的なものを記憶に頼って書いてきましたが「さすがにそれは。。。?」と思ったので
やっぱ避けて通れないなあ。。。ということで「ナ・バ・テア」~「スカイ・クロラ」再読しました。

このシリーズは前にも書きましたが、物語の時系列通りの順番で出版されておらず、この「ナ・バ・テア」は出版順だと二作目ですが、時系列で言うと一作目となります。

 出版順/「タイトル」/時系列順
1/「スカイ・クロラ」/5
2/「ナ・バ・テア」/1
3/「ダウン・ツ・ヘブン」/2
4./「フラッタ・リンツ・ライフ」/3
5/「クレイドゥ・ザ・スカイ」/4

※この5冊の他にスピンオフ的な短編集が1冊あるので全6冊です。
※以前の投稿を見直したら、全6冊のところを5冊と書いてましたので訂正します。

私が初読の時は既に全作出版されていたので、時系列順に読んでも良かったのですが、あえて出版順に読み始め、最後に又「スカイ・クロラ」を読みました。
 つまり、「スカイ・クロラ」に始まり「スカイ・クロラ」で終わる読み方をしたわけです。
どういう順番で読むのがいいのか?というのも、このシリーズではちょっとした話題の一つではあります。因みに著者の森博嗣さんは「どこから読んでもいい」と言っています。
 確かに、全てを読み終えてから頭の中で再構成すればどこから読んでもいいとは思いますし、順番に読まなくとも、物語を追う上で支障がないとも言えます。時系列の前の作品を読んでいないと誤読するようなものではありません。というより、時系列順に読めば「誤読しない」とも言えないくらい、ちょっと難解です。。。
とはいえ、時系列順に読むのがいいかとは思います。

 又、作品によって主人公の「僕」は変わります。
 時系列順/「タイトル」/主人公の僕/性別
1/「ナ・バ・テア」/ 草薙水素(クサナギ・スイト)/♀
2/「ダウン・ツ・ヘブン」/ 草薙水素(クサナギ・スイト)/♀
3/「フラッタ・リンツ・ライフ」/ 栗田仁郎(クリタ・ジンロウ)/♂
4./「クレイドゥ・ザ・スカイ」/ 函南優一(カンナミ・ユーヒチ)/♂
5/「スカイ・クロラ」/ 函南優一(カンナミ・ユーヒチ)/♂

「僕」は変わり、性別までも変わりますが、物語の中心人物は一貫して草薙水素です。
 
 名前の表記は作中では漢字とカタカナの併用です。実は、人物名を漢字とカタカナで表記し混在している点が、初読の時から引っ掛かっていました。
大まかに「セリフ」はカタカナで、それ以外は漢字というシンプルな使い分けだと思っていました。
例えば、

「待て!クサナギ」と笹倉は言った。
「なんだい?ササクラ」と僕は答えた。

という感じですね。
 ただ、注意深く読んでいくと、例外が2箇所ほどありました。

“「笹倉さんは?」僕は近づいていって尋ねた。「いる?」”

 という記述があり、何故かセリフなのに漢字です。
※「フラッタ・リンツ・ライフ」episode1: outside loop の2節の10行目
※私の手元にあるのは文庫版の2011年6月25日 12刷 発行

 もう一つ、草薙が電話を掛けるシーン。それを主人公の僕(カンナミ)視点で観察している記述。

“「あ、草薙です。ええ……、部長につないで下さい」”


 これもセリフですが漢字です。
この箇所はその場に居合わせない相手との会話を僕視点で見た記述なので、他の会話シーンとは違うと言えば違います。それが漢字になってる理由かどうかは分かりません。
※「スカイ・クロラ」episode2: canopy の5節
※私の手元にあるのは文庫版の2009年5月15日 14刷 発行

 一人称小説での主観的な「思考や状況を説明する」記述は、主人公の脳内世界と言う事もできます。
セリフは他者との関わりによって生じる会話が大部分です。自分から発せられた言葉もアウトプットした瞬間に内面から外面となる。
 会話は外界での出来事であり、脳内に対して脳外。或いはに対して
内面世界では漢字を使い、外での事象はカタカナ。
漢字とカタカナの境界は、そのまま自と他の境界と言える。

 何のことかと言えば、
主人公の「僕」は同一人物か?というこのシリーズ最大(?)の謎を解くヒントになるかなと。。。
これもこのシリーズでは避けて通れない話題ですね。

「あ、草薙です。ええ……、部長につないで下さい」
の箇所は、上記の漢字カタカナ併用ルールに基づいて解釈すれば「草薙です」は漢字なので、それを見ている僕(カンナミ)の脳内の妄想。
草薙は函南の内部にいて、同一人物内の別の人格である草薙を、もう一人の人格(カンナミ)が観察しているという事になります。
とすると、本当は電話していない。或いは、電話をしているのは「僕」
はたまた、電話をしている「別の誰か」を僕は草薙だと認識(誤認)している。。。。

 この箇所だけがそうであって、草薙と函南が会話する別のシーンでは、セリフはカタカナで、僕の中の思考は漢字です。

 多重人格であったとしても、同時に複数の人格が表出するわけではないので、ある時点で主人格となっている人格とは別の、もう一つの人格は主人格から見れば他人であり外面と言える。
 自分の中に別の人格を作り出し、それを他人と認識していれば草薙が電話を掛けるシーンでも、函南にとっての草薙は他人なのでカタカナで「クサナギ」となるでしょう。ところがこのシーンでは漢字なのです。

 なんだか怪しくなってきました(笑)
そして、少々ややこしい話ですね。
たったの2例なので、単なる誤植かもしれません。
或いは、何か意味があるのかもしれません。
 例外として挙げた2箇所のシーンは共通して「格納庫」での出来事である事も何か意味があるかもしれませんね。
注意深く読んだつもりですが、私が見落としているだけで他にも漢字カタカナ併用ルールを逸脱した記述があるかもしれません。

 「僕」は同一人物か?
については、ここまで書いてきてなんですが、個人的にはあまり気にしていません。
同一人物か?と問われれば、概ねそうだと思っています。つまり多重人格。
 草薙と栗田と函南は「僕」として記述され、且つ草薙と函南が同時に登場したり、その二人の会話で栗田の事が話題になったりします。
「同一人物ならそんな事あり得ないじゃないか」
と思うのが常識的かもしれませんが、全てを「僕」の脳内の事として解釈すれば不可能ではありません。

 森博嗣の作品には、名前が変わるキャラクタ。性別が換わるキャラクタ。どちらも珍しくはありません。
Vシリーズの登場人物が、名前を変えて別のシリーズに登場したりしています。
又、同時に別の場所に同一人物がいたと解釈しなければ成り立たない話すらありますし、性別を誤認させる作品も多々あります(ネタバレになるので作品名は明かしません)

 Vシリーズと言えば、脇役で主要な登場人物に保呂草(ほろくさ)というキャラが登場します。その保呂草は表向きは「探偵業」を生業にしている謎の多い人物なのですが、実はVシリーズを書いたのは、この保呂草です。
 どういう事かと言うと、保呂草と言うキャラが見たり聞いたりした事を、後に物語として書いたという設定になっていて、それを森博嗣が書いているという2重構造になっています。
 つまり、森博嗣の中に保呂草という人格を作り、その保呂草に小説を書かせているという入れ子状態は、多重人格という構造に繋がりますね。
 更に複雑にしますが、Vシリーズは一人称ではありません。全て保呂草視点で書かれている訳ではないので、別のキャラクタの視点で保呂草が物語を書き、これを森博嗣が書いているという事になり、これだけでも3重構造。

 話をスカイ・クロラに戻しましょう。
草薙の中に、函南と栗田という人格が作られているというパターン。
草薙の中に、函南という人格が作られ、その函南の中に、栗田が存在するというパターン。
草薙の中に、栗田という人格が作られ、その栗田の中に、函南が存在するというパターン。
草薙の中に函南が作られ、その函南の中に別の草薙が存在し、その別の草薙の中に栗田が存在する。。。。
まあ、この辺でやめておきましょう(笑)

 余談ですが
 カンナミ・ユーヒチ
 クリタ・ジンロウ
この名前も気になります。
 カンナミ・ユーヒチという名前の語感というか音感?から連想したのが
カミーユです。
カミーユはフランスでは男性にも女性にも用いられる名前です。
日本で言えば「アキラ」とか「ヒカル」ですかね。
 クリタジンロウは並び替えると
タジクウリロン
無理やり漢字に置き換えてみると「多時空理論」や「他時空理論」となりますし、多元宇宙論や並行世界などが連想されます。
ま、単なるこじ付けです。
「理屈と膏薬はどこへでも付く」という話です(笑)

 結局、再読しても多重人格説は明快になりませんでした。
ただ、そういう事も考え得るし、そうやって作品を捉えると
「僕」は同一人物か?
はどうでもいい事に思えてきます。というか全て「僕」で読み、多重人格だと思って読めばさほど混乱しません。
 本来のメッセージというか、書きたかったテーマはそこではないのだと思いますし、逆に言うと、書きたかった事を表現するには、そういった境界線をぶち壊す必要があったという事なのかもなあ。。。と
 それに、人は多かれ少なかれ、複数の仮面を持っていますよね。ね。え?
これ、否定されると自分で自分が怖いですが(笑)

 とは言え、矛盾だらけで理解不能な展開になってしまっては物語は破綻し、多くの読者に受け入れられることはないでしょう。
多重人格というある種の「叙述トリック?」みたいなものを駆使し、それでいて明快に記述せず、解釈の幅を持たせて、破綻しないギリギリを維持して、本来のテーマというか作品世界を構築する、森博嗣のバランス感覚に感心しますし、そんな森博嗣に関心を抱くのです。

 それでもこれを「破綻している」と評する読者もいるでしょう。ただ、そいう読み方は余裕と言うか「アソビ」が無さ過ぎかなと。
無駄なようで無駄でない、必要不可欠な「アソビ」が欲しいところです。
 理論上、又は設計上は問題のない技術でも、実用化する過程で様々な問題が発見されて、変更を余儀なくされるということは、エンジニアにとっては常識でしょう。
理屈通りにいかない事は多々ありますし、それが実際に我々が生きている社会です。そんな中で

どう生きるのか?
生きるとは何か?
死ぬとは何か?
子供とは?
大人とは?

 研究がしたくて大学にいるのに、研究をする為には予算を取ってこなければならず、そういった雑務によって研究する時間を減らされる。
 趣味の模型作りの為に「アルバイト」として始めた執筆。それが忙しくなると模型作りの時間が無くなる。
 空を飛び戦うことを純粋に求めているパイロットが、優秀であるが故に喪失を恐れた軍事企業によって、昇進させられ、前線から遠ざけられ、それでも空を求め続けるクサナギ・スイト
全てが重なってきます。
スカイ・クロラシリーズは森博嗣の自伝的、私小説的なものだと思います。

 長々書いてきましたが、こういったことを土台にして、本来表現したかった、書きたかった事はなんなのか?
それについてはここに書いても意味ないかなと。
所詮は私個人の主観ですし、それぞれに自由に解釈すればいいと思います。
他人がどんな解釈をするのかは聞いてみると面白いですが。。。

自由に解釈しましょ。
空を駆けるように。

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