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秘密屋 ー留守番ー

「だからさぁ、ねぇ、ちゃんと聞いてる?」

長く柔らかそうな髪を耳にかけ、ヒロコさんは話し続ける。眉間に皺を寄せて難しい顔をしたまま瓶を傾けてゴクリと一口飲む。秘密屋はカラフルな看板や人の流れから外れた薄暗い路地裏にひっそりと佇んでいるはずなのに、常連みたいに当たり前にヒロコさんはやって来る。せめて秘密屋がいる時に来てくれたらいいのに、何故かいつも僕が留守番している時に千鳥足でやって来る。片手にバッグをぶらぶらさせて、もう片方の手にはワインの小瓶を二本掴んで。

「ちょっと、ナカジマ!聞いてんのかって。」

「はいはい、聞いてますよ。」

僕はナカジマじゃ無いけど返事する。いつも酔ってから来るヒロコさんに名乗っても無駄なのはもう知っていた。

「はい、は一回だって先生に言われたでしょうが!…もう!酔っ払いを相手にしてるんじゃ無いんだから、ちゃんと聞いてよね!」

ヒロコさんは間違いなく酔っ払いだけれど、人は真実を言われると怒るものだ。と秘密屋が言っていた。僕は黙って静かに頷く事にした。ヒロコさんは折り畳みの椅子に腰掛け、短すぎるショートパンツから伸びた長い脚を組んで僕をじっと見つめる。ちゃんと話を聞いていたか確かめたいのだろう。椅子を奪われて立ったままの僕は、宿題を忘れて怒られている子供みたいに答える。

「えーっと、つまり、ヒロコさんは美人なのに時々死にたくなるのは何故かって話で…。」

ヒロコさんは立ち上がり、僕の鼻を指先でつつく。綺麗にネイルされた爪が刺さりそうで怖い。

「違うでしょうが!美人かどうかは関係ないの。だいたいさぁ、美人かどうかとか白とか黒とか、何で皆んな二択にしたがるの?ナカジマってそういう奴?野球かサッカーなの?」

最初は仕事上の愚痴を言っていたヒロコさんの話は恋愛の愚痴や過去の失敗なんかを経由して野球かサッカーの話になった。

「僕は野球もサッカーもしません。」

「何だよ!ナカジマなのに!『おい、磯野、野球しようぜ』って言うでしょうが。」

ナカジマってその中島か。酔っ払いの思考はわからん。ヒロコさんは大きくため息をついてまた座った。

「…とにかくさぁ、美人で完璧な私でも時々死にたくなるのよ。ナカジマはそんな時どうしてるの?やっぱ野球?」

ヒロコさんの死にたくなる時ってどんな時だろうかと考える。関係ないって言ったくせに美人で完璧って言うあたり気が強そうだし本当に無敵に見える。そんな人でも死にたくなることってあるのか。僕は…

「死にたくなったこと、無いです。」

ヒロコさんは飲もうとしたワインの瓶を傾けたまま僕をじっと見た。

「一度も?」

少し考えて、頷く。

「…そんな人もいるとは…けど、そっか。ナカジマは死にたくならないのか。野球のチカラだな。」

「いや野球はー」と言いかけた僕にヒロコさんはうん、うん、と何やら勝手に納得してまたワインをゴクリと飲んだ。

「ナカジマは白でも黒でも無くて、うん、透明なのかもね。無害透明。」

「無害透明…それって褒めてます?」

えへへ、と酔っ払いらしくヒロコさんが笑う。

「褒めてない。けど、きっと需要はあるよ。無害な奴は。」

ワインの栓をくるりと回してよいしょ、と立ち上がり腕時計を見る。キラキラしすぎている可愛らしい時計は昔の彼からのプレゼントだと言っていた。「安物なのよ。馬鹿にしてるでしょ」と笑いながらも大事そうにしている。そんなヒロコさんはいつもより柔らかく優しそうだ。

「じゃあそろそろ帰るわ。今度はナカジマの分のお酒も買って来るね。」

「いつも二本持ってるけど、結局ヒロコさんが飲んじゃうからなぁ。」

うふふ、と笑ってヒロコさんは千鳥足で帰って行った。ドラマみたいに振り向かずに片手を振って。僕はテーブルの上の空になった二本の瓶をとりあえず下に置いて少し暖かくなっている折り畳み椅子に座った。ヒロコさんの人生がどんな日々なのか僕は少ししか知らない。死にたくなる理由も分からない。けど、酔っ払いながら僕に話す事で少しでも元気になるなら、まぁいいか。

ヒロコさんの香水とワインの匂いがまだ残っている。路地には僕と、ヒロコさんの爪みたいな細い月だけだ。秘密屋はまだ来ない。


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