雨降り発火飴奇譚
桃の花の甘い香りに、沈丁花の清々しい香りが切り込んできた。
そろそろ到着という香りの合図だ。安心して、私は岩の上にリュックサックを置いた。リュックの中から水筒を取り出して麦茶を飲む。冷たい麦茶が、喉の渇きと上昇しすぎた体温を落ち着かせてくれた。
水筒を片手に、腰に手を当てて山の景色を眺める。桃の花が果てしなく広がっていて、海のよう。感嘆と安堵の溜め息が出た。昨年はあまり咲かなかったから、枯れてしまうかもと心配だった。
沈丁花神社がある山頂から風が吹いてきて、爽やかな沈丁花の香りが強くなる。春を司る佐保姫という女神様を祀っている神社だ。地元の人しか知らない小さい神社だが、境内で毎年たくさんの沈丁花が咲く。
沈丁花神社に特別な春のお供え物を贈るのが、私の家の重要な仕事。数年前から父が体調を崩したので、代わりに長女の私が行くことになった。
飲み終わった水筒をリュックに戻し、腰や肩を回してストレッチする。標高の低い超初心者向けの山、だったはずだが、デスクワークで体力が落ち切った私には少々きつい。子供の頃は、神社まで駆け上がっても余裕だったのに。
ラジオ体操っぽく体を動かしていると、何か、下から見られているような気がした。視線を下に向けると、1人の子供がいた。七五三のような、紋付き袴姿で白い頭巾を被っている。
防災訓練で使うような頭巾で、ほとんど顔は見えない。草履のようなものを履いていて、ここまで山道を歩いてきただろうに、白い足袋は少しも汚れていない。
「あ、ごめんね、邪魔だったかな」
へへへと笑って困惑と羞恥をごまかしながら、岩の傍に寄って山道を譲る。しかし、子供は微動だにせず、無言で私のリュックサックを指差した。
「それは、もしや、お供え物ですか?」
「え?ああ、そうだよ。この先の沈丁花神社の女神様の。よく分かったね。毎年、ハッカ飴と菜の花をお供えしに行ってるんだ。君も、神社に行くの?」
リュックから少しはみ出ている黄色い花に近づいた子供は、その香りを嗅いで満足そうに微笑んだ。
「良い香りですな。佐保姫様も喜ばれるでしょう。そろそろ発火雨を降らせる時期ですと佐保姫様にお知らせするために、私も毎年、天界から神社に馳せ参じております。いつも、ぼんやりされてるお方で。お知らせしないと、うっかりお忘れになってしまうから」
穏やかなお爺さんのように喋る子供は、また菜の花に鼻を近づけてうっとりした。人間だとは思うが、もしかして、山で出会ってはいけない何かなのかもしれない。
まぁしかし、嫌な感じはしない。昼間だし。すぐ近くに神社があるし。大丈夫だろう。もし妖怪ならば、わくわくしてしまう。インタビューしてサインお願いしたいくらいだ。
「発火雨は、沈丁花が咲き終わった時、静かに降る雨です。桃の花に細かい雨水が纏わりついて、燃え立つように見える。雨が桃の花を燃やして、命を繋ぐ水になる……そんな面白い雨なのです」
桃の花に付いた雨水が、火花を散らす。桃の花が燃えているのに、雨が降っている。降れば降るほど、鮮やかに燃えて。神秘的な発火雨のイメージに圧倒される。そんな雨が、春に降っていたのか。
「発火する雨かぁ……。昔の人には、そんな風に見えたんだね。面白いなぁ。良く知ってるね。すごい」
「いえいえ。天界の者たちは今も昔も、巧みに言葉を使う人間に驚かされているのです。あなた方が、凄いのですよ」
さっと菜の花から離れ、頭巾の位置を少し直した子供は、私にぺこりと頭を下げた。ああ、行ってしまう。
「あ、ちょっと待って、神社まで一緒に歩かない?」
「良いのですか?」
「良いよ良いよ。同じ場所に行くんだから、一緒に行こう。そうだ、ハッカ飴、食べたことある?食べてみる?辛すぎたら、ぺってしていいから。たくさんあるから大丈夫。私も登ってる時に何個か食べちゃってるし」
「おお、それはありがたい。どんな味なのだろうと、少し気になっておったのです。しかし、私より年若い佐保姫様に飴を強請るわけにもいかず」
はっはっはっと笑う子供の小さい右手に、緑色のセロハンの包みから出した白いハッカ飴を握らせる。何歳なのか気になるが、ふくふくした右手に触れてしまうと、もう幼い子供としか思えなくなった。
「ありがとうございます。ではさっそく……」
ハッカ飴を口に含んだ子供は、真剣な表情になった。やっぱり駄目そうか。ポケットティッシュを慌てて数枚引き出して、スタンバイする。
「ああ、無理しなくていいよ。私も初めて食べた時は、辛すぎて泣いて吐き出しちゃったし」
「いえ……大丈夫です。目が覚めますな、これは。うん、実に鮮烈な味です。まさに発火するような……うん……佐保姫様が眠気覚ましにと所望する理由が、よく分かりました……」
すたすたと歩き始めた子供を、慌てて追いかける。天界の人の舌も、ハッカ飴で発火するらしい。後で麦茶を勧めよう。
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