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居士は正体を煙に巻き

香炉の凹凸に、濃い煙がゆっくり流れていく。目が離せない。クリームのように流れていく煙。甘い香りも強くなっていくものだから、本当に甘いクリームだと錯覚しそうになる。

「……面白いでしょう。私も夢中になって見てしまいます。流れる川のお香と書いて、流川香りゅうせんこうというものです。白檀の優しい香りも、落ち着くでしょう」

「……はい」

常にチェック柄のスーツをぴっしりと着ている老紳士、七富庫司ななとみこうじさんは微笑んだ。ああやはり、随分前に亡くなったお爺ちゃんに似ている。そのせいか、何かあるとすぐ、近所の七富さんに話を聞いてもらいたくなってしまう。

「あの、いつも突然来てしまって、すいません」

「いいんですよ。一応ここは寺ですから。いつでも気軽に来てください」

七富さんは、自宅を寺として開放している。住職の七富さんはいつもスーツ姿だし、モダンな雰囲気のおしゃれなお宅なので、なかなか寺だとは気付いてもらえないらしい。

しかし、読経用の部屋には立派な仏壇がある。いつ来てもピカピカに磨き上げられている仏壇と仏具。それらの前で時々、朗々とした読経を聞かせてくれる。七富さんは正真正銘の僧侶なのだ。

「亡くなった人のことで、何か悔いているのですか」

テーブルの上の香炉を眺めていたら、七富さんの穏やかな声に正面から射抜かれた。

「……私、分かりやすいですか」

「僧侶をしていると、悲嘆に暮れる人とよく接しますから。顔を見ているだけでも、ぼんやりと悟れるようになるのです」

象のような静かな目に見つめられて、自然と口が開いた。

「そう、なんです。十年前に、友人が突然亡くなって。亡くなる直前に、私に電話してくれたんです。か細い声で、もう今生のお別れだから、声が聞きたいと、言っていて。でも、私は、忙しいからと真面目に取り合わないで、すぐに切ってしまいました。冗談をよく言う子だったから、冗談だと、思って」

「……そのご友人は、その直後にご自身で?」

「はい。命を絶って、呆気なく煙になりました。ずっと、後悔していて。謝らなくちゃって、思うんですけど、夢に出てくれないし、もう、遅すぎるし」

俯いて涙を拭う。ああ、言えた。初めて吐き出せた。

「……どうしても、そのご友人に会って、謝りたいのですね?」

数回、頷く。

「分かりました」

七富さんが、イスから静かに立ち、仏壇のある部屋に消えた。五分ほどして戻ってきた七富さんは、私に小さい箱を手渡した。箱の中には、小さいお香のチップが一つ。

反魂香はんこんこうです。今日の夜、暗闇の中で炊いてごらんなさい。煙を頼りに、彼岸からご友人がこちらに来てくれます。数分間、会話できるでしょう。一回分だけ、お譲りします。何度も使うと、あなたの精神が蝕まれてしまうから」

七富さんの優しい目の奥が、妖しく光ったような気がした。



お香を小皿に置いて、火を付ける。ちゃんとした香炉でなくてもいいのか、聞いておくべきだった。少々不安になりながら、照明を消して待つ。凄まじい煙の量だ。何回か咳き込む。

のしっと、人がすぐ後ろの床を踏む感覚がして、鳥肌が立った。

「呼んでくれたんだね。ありがと」

「こんちゃん?」

後ろを向くと、こんちゃんが当たり前のように立っていた。元気そうだ。最後に見たこんちゃんの首元にあった、痛々しい縄の痕は無い。

「ほんとに、こんちゃん?」

「そだよ。ほれ、触ってみて」

こんちゃんが右手を差し出してくる。触ってみた。温かい手の感触。生きている。

「ごめん……ごめんね……ちゃんと、聞いてたら、私……電話……最後の……こんちゃん……ごめんなさい……ごめん」

感情と涙に邪魔されて、言葉が上手く出ない。

「私も、ずっと謝りたかったんだ。ごめん、死んじゃって。後悔させちゃって、ごめん。これからも、友達でいてくれる?あと五十年くらいは、こっちで待ってるから」

「うん……うん……待っててよ、もう勝手に遠くに行かないでよ」

「うん。行かない。待ってる。誓うよ」

梅の花の香りが、漂ってきた。

「ああそろそろ時間切れ。そうだ。そのお香ね、果心居士かしんこじって人が作ってるんだ。彼岸で有名な幻術師でさ、いつもこの世とあの世を行き来してる。現世では七富庫司ななとみこうじって名乗ってるらしいから、もし会ったら、ありがとって伝えてくれる?」

七富さん?幻術?かしんこじ?困惑していると、こんちゃんの気配が消えた。

すぐに照明を点ける。誰もいない。燃え尽きたお香の周りに、梅の花弁がたくさん落ちていた。


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