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五彩の墨の花園

メトロノームの音に合わせて、黒猫の尻尾が揺れる様子を見ている。もう何時間、経っただろうか。

フローリングの床の上に防水シートを敷いて、水墨画の道具を用意して、自分が正座したまでは良かった。座った瞬間、先月の品評会での出来事がフラッシュバックして、固まってしまったのだ。

じわじわと、足にフローリングの冷たさが伝わってくる。諦めて立ち上がり、棚の上でメトロノームに悪戯しようとしていた愛猫のインクを抱き上げた。

私はまだ駆け出しの水墨画家だ。品評会で大先輩たちに厳しいことを言われるのは当たり前だ。指摘された箇所を直して、どんどん描いて、力に換えていかなくては。

分かっているのに、筆が動かない。先輩たちが自分の作品を見る鋭い目線、手厳しい言葉、ほんの少しの自信も打ち砕かれる感覚。いつものことなのに、先月から心が重い。

落ち込んでいる場合ではないのだ。すぐに仕上げなくてはいけない絵がたくさんある。でも、いざ筆を取ると迷いが生じる。駄目だ、描けない、という声がどこからか聞こえるのだ。

にゃあ、と鳴いて暴れだしたインクを撫で、棚の上に開放する。インクは丸くなって目を閉じた。眠くなったのだろう。観察していると、ぷぅ、ぷぅという小さな寝息が聞こえてきた。

私も眠くなってきて、床に寝転がる。少し眠れば、きっと描けるようになる。そう祈って、目を閉じた。




ぐるるるる……

動物の唸り声が聞こえる。耳にヒゲのような毛が当たって、くすぐったい。

「う~ん……インク?……お腹空いたの?」

手を伸ばすと、インクのふわふわした猫っ毛の感触。でもいつもより少し固い気がする。目を開けると、白黒のコントラストが美しい毛並みで視界が塞がれていた。

「そろそろ起きてください、お寝坊さん。帰れなくなってしまいますよ」

「うわぁぁ!!」

飛び起きて、尻餅をついた。巨大な白い虎が、優雅に身体を横たえている。私は、あの虎のそばで眠っていたのか?いや、そんなはずない。ここはどこだ。いったい、どうなってる。

「おはようございます。この水墨画の世界に人間の迷子なんて久しぶりです。あなたはどうやら、かなり水墨画にのめり込んでいらっしゃるようだ」

動揺する私を気にせず、白い虎は流暢りゅうちょうにしゃべる。女性のような声色だ。

水墨画の世界。周囲を見回してみると、感嘆の声が出た。濃い霧に覆われた竹林のような空間だが、すべての竹の輪郭が、墨で描かれたように柔らかだ。白い虎もよく見れば、筆で丁寧に描かれたような輪郭をもっている。

「は、ははは!本当だ!水墨画の中に入ってる!」

立ち上がり、幽玄な竹林を走り抜ける。水墨画の中に入れたら。子供の頃からずっと願ってきた。叶うなんて。奇跡だ。夢でも幻覚でもいい。

興奮していると、白い虎が追いかけてきた。

「ふふふ、この世界にくる人間は皆、あなたのようにはしゃぐのです。私に乗ってください。いい景色が見える場所へ案内します」

「え、い、いいの?」

神々しい白虎にまたがるなんて、なんだか気が引ける。白い虎と目が合った。墨で描かれた青味がかった瞳が、私を急かす。



びゅんびゅんと、霧が後ろへ流れていく。白い虎の背中に必死に抱きつきながら、私は笑っていた。ジェットコースターのたぐいは苦手なはずだが、今は楽しくて仕方がない。

「さぁ。着きましたよ。ご覧なさい」

促されて、地面に降りる。あっという間に崖の上まで来ていたようだ。風で霧が晴れた瞬間、息を飲んだ。

雄大な山河が、水墨画のタッチで立体的に描かれている。水は流れ、木々は揺れて。まさに、私の理想とする水墨画だ。

「美しいでしょう。毎日、色彩が変わるのです。墨に五彩あり、と申しますが、まさにその通り。今は銀色ですね。ほら、木々をよく見て」

木々に日光が当たっている場所が、銀色に煌めいていた。銀の花が咲き誇っているかのようだ。

「ああ、本当に綺麗な銀色……」

墨は、和紙にのせると様々な色味を帯びる。それを初めて実感した時の感動がよみがえった。描ける。描こう。帰ったら真っ先に、この銀色の世界を描こう。

「もう一人で帰れますね。またあなたが迷子になる日まで、お別れです」

白い虎に礼を言おうと振り返った途端、足元の地面が崩れた。綿雲のような濃霧の中に、身体が吸い込まれていく。




目覚めると、黒猫のインクが胸の上に乗って、私の顔を見つめていた。いつもの作業部屋だ。にゃあ、と鳴くインクの両脇に手を入れ、抱き上げた。

「さぁて、何を描こうかインク?銀の山河は絶対描くとして、次は?青い墨で、銀杏の葉のヒレがついた魚でも描こうか。はは、今から描こう!」

起き上がって筆を取り、筆先を墨汁に浸す。墨が白い筆に吸い上げられていく。あの白い虎の毛並みのようで、美しい。



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