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雪の果ては醤油蔵

巨大な醤油のおけの横を通り過ぎる時、私はいつも思い切り息を吸う。何とも言えない良い香りがするのだ。

挨拶しながら更衣室に入って、作業服に着替える。姿見の前に立ち、じっくり最終確認。左耳の補聴器も確認した。

世界中で粉雪が降り続いて、もう一ヶ月が過ぎた。そして、世界中で音が伝わりにくくなった。外では常に大声でないと会話が成立しないし、防災無線が聞こえない。

最初は雪が音を吸収している、と思われていたが、どうやら雪以外にも要因があるようで、世界中で調査が始まった。そして安全のため、全人類に補聴器が配られた。左耳の相棒を、指で軽く弾く。



今日から醤油の仕込み作業、麹作りが始まった。まず炒った小麦と蒸した大豆、それらに麹菌をまぶす。

次々と運ばれてくる熱々の小麦と大豆を平らにならして、麹菌を混ぜる。隣のベテラン職人の手捌きを真似ようとするが、無理だった。とにかく熱い。

出来上がった麹は大きな桶に入れて、ひたすら発酵させる。そして、醤油の完成だ。小麦と大豆を冷ます工程には冬の寒さ、発酵させる工程には春の暖かさが必要になる。どうか春になりますように、と念じながら作業を続けた。



やっと休憩を貰えて、作業服に上着を羽織っただけの姿で作業場の外に出た。誰もいない喫煙エリアで、頭を空っぽにしながらタバコを吸う。

雪の中に消えていく煙を目で追った。

入院中の祖母を思い出す。前に見舞った時、祖母は二月は雪が消える月、雪消月ゆきげづきというのだと教えてくれた。本当に、そろそろ雪は止んでもらわなくては困る。

私は、この醤油の蔵元に入ったばかりの不器用な新人だ。醤油の味が落ちて、経営が苦しくなってリストラなんてことになったら。

いつでもどこでも上手くいかず、社会生活からドロップアウトし、自暴自棄になっていた私を諭してくれた上に、雇ってくれたのは社長だ。懐の大きな、情に厚い人だ。だから、リストラなんて簡単には言い出さないだろう。

だからこそ、無理させたくはない。その時が来たら、私は自分から辞めるつもりだ。仕方ない。ああ、でも、辞めたくない。

長くなってきた灰の部分が落ちそうになって、慌ててタバコを携帯灰皿に入れた。そう言えば、囲炉裏いろりの灰をむやみにいじると、灰の中から人間を食べてしまう妖怪が現れるのだ。おばあちゃんが昔、よく話してくれた。あと何回、おばあちゃんと話せるのだろうか。

遠くに視線を向けた時、高さ二十cmくらいの雪だるまが、こちらに向かって長い行列を作っていることに気付いた。誰かの悪戯だろうか。少し灰色がかっている雪だるまだ。

「どうか、お助けを」

子供のような声が聞こえた。補聴器を外して確認する。壊れていない。とりあえずまた耳に装着していると、雪だるまの集団が詰め寄ってきた。

「うわっ!」

「あっ!逃げないで~!ほんのちょっとだけ、手を貸してくれませんか!どうか、お願いします!」

押し寄せてくる灰色雪だるま軍団に、とっさに逃げてしまった。しかし、本当に困っているようだ。迷いながら、先頭の雪だるまに近づく。

「僕たち、灰坊主あくぼうずという妖怪と雪の精です。音を食べる雪を降らせる悪戯をしようと思って、集まって融合したのですが、魔力不足で戻れなくなっちゃって。こんなに雪を降らせるつもりではなかったんです。僕たちが元の姿に戻れれば、雪はすぐに止みます。それで、あなたの魔力をお借りできないかと思いまして……」

灰坊主。聞き覚えがある。

「ああ!おばあちゃんがよく言ってた、灰の妖怪だ!雪の精と灰の妖怪かぁ。世界規模で悪戯しちゃ駄目だよ……。というか私はただの人間だけど……」

「あなたからは、確かに魔力の匂いがいたします」

先頭の雪だるまの上に、後ろの雪だるまが次々に飛び乗って、トーテムポールみたいになった。そして、頂上の雪だるまが私の指先に頭を寄せた。

「うん。やはり、指先に魔力が宿っていますね」

「あ、麹菌かもなぁ。さっきまで大豆と小麦に麹菌混ぜてたから。手はよく洗ったんだけど」

自分で手を嗅ぐ。確かに、麹の香りが少し残っている。

「麹菌、というのですか。ほぉ……驚くほど強い魔力だ」

雪だるまのトーテムポールは瞬く間に崩れた。そして雪だるまたちが集まり、一瞬でピラミッドみたいになった。思わず拍手してしまう。

「おお、すごいね。雪坊主の組体操だ」

灰坊主あくぼうずと雪の精です。あの、両手を私たちにかざしてくれませんか?」

両手をかざすと、一瞬で視界が真っ白になった。目を閉じる。しばらくして目を薄く開けると、雪が下から上に昇っていた。時間が戻っているかのようだ。

呆然としていると、防災無線が鳴り響いた。爆音に、たまらず補聴器を外す。聞こえる。音のある世界が戻ってきた。

「もう本当に、悪戯なんてするんじゃないよ」空に帰っていく雪に向かって、つぶやいた。



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