私にとって「星野源」とは
2020年6月23日は愛しの源さまこと星野源さん、デビュー10周年でした!
ぱっぱらーん!!!ででーん!!おめでとーー!!!!!(叫)
私はこれを書きながら、星野源のオールナイトニッポン 「星野源10周年スペシャル」を聴いております。
最近音楽が聴けず、星野源さんも避けたくなっていた私ですが。記念すべき日はやっぱり、一緒にお祝いしたいじゃん、声聴きたいじゃん!大好きなんだもん。
ということで、今回は私の星野源ヒストリーについて書いていきたいと思います。
私が星野源を知ったのは、2015年。Mステのクリスマススペシャルだった。彼はテレビの中でサスペンダー付きのスーツを着て、黄色いワンピースを揺らすかわいいダンサーを引き連れ「SUN」を歌っていた。
「こんばんは。星野源でーす!」そう叫んで、ぴょんぴょん跳ねながら歌う姿が、とってもキュートだったのを覚えている。
その明るいサウンドと、キャッチーなダンス。私は一瞬でステージに釘付けになり、いつの間にか〈ah ah ah〉と口ずさんでいた。
このとき15歳、高校1年生だった私は、地獄にいた。
クリスマスがやってくる12月、の半年前。6月12日。金曜日の5限目。数学の時間。保健室の先生が、教室の扉をノックし私の名前を呼んだ。
「下にお母さんが迎えにきてるから、荷物まとめて一緒に降りよ」。
保健室の先生は、なぜ母が迎えにきているのか何も言わなかった。けれど、祖父母を立て続けに亡くしていた私は、この時点で誰かが死んだんだなと覚悟した。荷物をまとめて脱靴室に向かう途中、いろんな人を頭に思い浮かべた。(誰が亡くなってしまったんだろう )。どんどん心拍数が上がっているのがわかった。息がしづらかった。
玄関に立っていた母は、私をみてすぐこう言った。
「オオカミさん、死んじゃった」。
「あぁ、やっぱりか」という思いと、「オオカミさんが?」と、さっき思い浮かばなかったその人の名前を聞いて、頭が真っ白になった。
それから、ポチッとどこかスイッチをおされたかのように涙が溢れでた。人間の涙は、なにも実感がなくても流れる仕組みになっているっぽい。
オオカミさんは、母の兄。つまり私の叔父にあたる人だ。もちろん、「オオカミ」が本名ではない。
私が小さい頃、叔父は「赤ずきんちゃん」のオオカミ役に扮して鬼ごっこのようなままごとに付き合ってくれた。だから、私は叔父のことをずっと「オオカミさん」と呼んでいた。さすがに、中学生になったあたりで、「オオカミさん」なんて呼ぶのは恥ずかしくなって「叔父さん」とか呼んでみたものの、そっちの方が恥ずかしくて結局話すことすら少なくなってしまった。
恥ずかしくてもオオカミさんって呼び続ければよかった。もっと相談にのって貰えばよかった。一緒に遊んでくれたことが本当に嬉しかったってこと、なにも伝えられずオオカミさんは死んでしまった。
くも膜下出血だった。
祖父母は病気になり亡くなったので、お別れが近づいていることはわかり心の準備もできた。闘病している姿があまりにもつらそうだったから、早く楽にしてあげたいとも思った。けれど、叔父は急にいなくなってしまった。同じ"2度と会えなくなる"でも、突然とそうでないとでは悲しみが違った。
なにが起こったのか受け止めて理解ができていない状態でも、お通夜と葬儀は進んで、あっという間にオオカミさんは火葬されてしまった。
もう2度と触れられない。温もりを感じられない。声を聞けない。ジョリジョリした髭をこすり当てられることもない。オオカミさんはたった2日で消えてしまった。
知らせを聞いた金曜日からあっという間に時間は過ぎ、日曜日には全てが終わった。叔父という間柄だと忌引きにならないので、私は月曜日から学校に行かなければならなかった。
全く行く気にならなかったけれど、母に「車で学校まで送ってあげるから」と強引に連れて行かれた。車の中で私たちは一言も話さなかった。きっとお互い、頭の中は空っぽだったんだ。
学校につき、駐車場で私が車を降りるとき、母が一言「がんばれ」と言った。その言葉を聞いて、さっきまで空っぽだった頭にこの2日間がぶわっとフラッシュバックしてきた。
泣きながら登校した。
そんなことがあっても、朝礼はあって、授業は進んで、お昼になればお腹が空いて友達と席をくっつけてお弁当を食べた。涙も止まってくだらない話で笑った。どんなに悲しくても、私の日常は変わらず動いた。
とはいえ、すっかりさっぱり悲しみを忘れられるというわけではない。何日っても「まだ出るのか」っていうくらいに涙が出た。毎日、夜になるとどうも悲しくなって、ひとりで布団に入ると、オオカミさんとの思い出と葬儀会場のゆりの花の匂いが鮮明に蘇ってきて気持ち悪くなった。嗚咽するくらい泣いて、疲れて、いつの間にか眠っていて、朝が来ている。それが毎日のルーティンになった。
大切なものはつくろうと思ってつくれるものじゃなくて、いつのまにか大切なものになっている。けれど、いつのまにか無くなっているなんてことはなくて、大切であればあるほど、失うときの悲しみは大きくなる。
そんなことが分かって、今度は自分が生きていることに辛くなった。
友達と笑い合っていても、誰かに優しくされても、この幸せな時間が無くなってしまうことばかりを考えるようになった。いつかまた、こんなに辛い思いをしなきゃいけないのだと思うと、大切なものが増えることが怖くて拒絶したくなった。
誰も私に優しくしないで。私といい思い出をつくらないで。私と関わらないで。
でも、そんなことできるわけがない。
どうやったって、誰かが私の人生に関わってくれるし、こんな状況ならなおのこと、みんな支えてくれて励ましてくれた。
私の周りに素敵で大事な人がいることがわかればわかるほど怖くなった。
この恐怖から逃げるためには、他人を拒むのではなく、自分がいなくなる側になるしかないと思った。首を吊ろうとか、手首を切ろうとか、そういう行動に起こす「死にたい」ではなく、日々の生活を「生きることをやめたい」感覚だった。
うまく言えないけれど、今ある状況がつらくてそこから逃げたいのではなくて、未来に対しての恐怖があった。この先いくら楽しいことがあっても、それは永遠ではなくて、楽しいという感情の何倍の強い、苦しい・悲しい・辛いという感情を私は経験しなくちゃならないんだ。苦しむことがわかりきっているこれからを、どう生きればいいのかわからなかった。どうして自分から、悲しくて苦しい未来に進まなきゃいけないんだ。「どうしてこれからも生きなければならないの?」
そんなことを考えながら6ヶ月を過ごし、やってきた12月の「クリスマス」。サンタさんが私に届けてくれたのは星野源の音楽だった。
星野源の歌声に、久しぶりに自分の顔が上を向いたことに気づいた。下ばかり向いて、テレビもBGMの代わりみたいになっていたのに、目線が上がりテレビにかぶりつくように見入った。
それから、「星野源」を好きになって、彼の今までも知った。たくさん「SUN」を聴くようになって、歌詞を理解するようになった。
どうして、ここまで私が星野源が歌う「SUN」を好きになったのか。それはただ「こんばんは〜!」と叫ぶ星野源がかわいかったからでも、サウンドがキャッチーだったからでもない。
「SUN」の中には、私が欲しかった「なぜ生きなければならないのか」の答えがあったからだ。
そして、その詞は気休めでも綺麗事でもなく、星野源自身が叔父と同じ、くも膜下出血を患い死を身近に感じたからこその説得力をもって私に響いた。
<僕たちはいつか終わるから/踊るいま>
星野源は「なぜ生きなければならないのか?」の問いに「死ぬから」という答えを持ってきた。
この一行で、私は全てを知れた気がした。
いま死ななくても、未来に希望が持てなくても、人間はいつか死ぬ。しかも、そのいつかは何十年先の「いつか」ではなく、明日かもしれない「いつか」なのだ。だったら、私が今するべきは、生きることしかないのかもしれないなって納得できた。
星野源オールナイトニッポン10周年スペシャルのメールテーマは「星野源に教わったこと」だった。
彼が教えてくれたこと。それは人間は皆いつか死ぬということ。そしてそのいつかは明日かもしれないということ。だからこそ、いまを生きなければならないということ。
この真理は、私にとって”生きるため”に必要だった。
だから、今回のタイトルにはこう答えるしかありません。
私にとって「星野源」とは、命の恩人です。