【Podcast書く人の気まぐれラヂオ】#39 昭和から平成を彩った詩人スペシャル!①
はじめに
こんにちは。長尾早苗です。
春も近づいてきて、3月は昭和から平成までの時代を彩った詩人スペシャルとして、昭和初期~後期、平成にかけて詩壇に彩を与えた詩人をシリーズにしてお送りしていこうと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
◆金子光晴
いかなる芸術運動にも、政治的な運動にも与しなかった詩人、金子光晴。彼が描いた生活に基づく詩は、そのほとんどが「地獄」でした。泥水をすするような生き地獄の中で、ひとはどう生き、どう世界を見てどう暮らすのか。そんなことを思います。
今の「生活」を描いている詩のジャンルは、ある種幸福と言っていいと思います。誰にも起こるような日常の中のふとしたきらめきを詩にしているのが今だとすれば、金子光晴はその中で逆の方向、「生活」の中の闇をじろっとした目つきで観察しているようにも思います。
放送では「落下傘」を読んでいます。
◆萩原朔太郎
朔太郎といえば前橋!と思う方ももちろんいます。彼にとって故郷は、捨てきれなくてふるえるほど懐かしいのに、でもどこかおののき、(朔太郎自身にとっては)ある種の不安さえ感じさせるような、奇妙な位置づけとして位置づけられているようにも思います。幻を見ながら月を見て、自然を感じ、海を思い描き、夜に生きた詩人。朔太郎のことをそう称することもできるかと思います。
一生を彼は故郷の田舎を呪いながら、でも愛さずにはいられなかった。その不思議な感情が、彼に詩を書かせる大きな動機になったのではないかと思います。
放送では「ばくてりやの世界」を朗読しています。
めっちゃ「おぎわらさくたろう」って言ってます、ほんとごめんなさい!!
◆吉原幸子
わたしも創立メンバーとして参加している詩誌La Vagueは現代詩ラ・メールに影響を受けています。女性たちの言いたくても言えなかったこと。女性に生れたこととその問題について、ここは一番守られている場所として、何を言ってもいい場所。わたしはわたしたちの詩誌をそう捉えています。
吉原幸子は彼女自身が詩人として生き、母として生き、もっと言ってしまえば女として生きた詩人です。どんな苦しみも悲しみも傷も、すべてを自分のものとして、慈しみ、息子の母として息子(Jと呼ばれています)の成長に自分自身も成長していく姿がいとおしく見受けられます。
放送では「喪失ではなく」を朗読しています。
◆高見順
いわゆる「作家の詩」と言われた高見順の詩ですが、長尾自身にはしっくりきて、しみじみと「いいなあ」と感慨にふけります。比較的短い詩が多いのですが、その中や余韻、余白にほんのりと詩情を感じます。詩の書かれてあるところに余白がきちんとあるとき、それはいわゆるかっちりとした「現代詩」ではありませんが、いいなあと思うものはいいなあと思います。
日常・生活、「いつものこと」の観察眼がすぐれています。
放送では「喜び悲しみ」を読んでいます。
◆中原中也
いろいろな逸話のある文豪、中原中也。有名どころの詩はみなさんご存じだと思うのですが、彼が山口の医者の名家の長男だったことと照らし合わせてみると、とても彼自身にとってはいたたまれない生活を送っていたのではないかと思います。妻に子どもと逃げられ、酒浸りの日々。けんかっ早くて、そんな自分を止められないでもいて。一番それがあらわれているのが放送で読んだ「帰郷」なのですが、「おまへはなにをして来たのだ」という問いを常に中也は持っていたのではないかと思います。
「帰郷」、放送でゆっくりとお楽しみください。
終わりに
なごり雪の前の日、なんだか切ない3月を迎えておるのですよ長尾。
人事異動やら、退職やら、いろいろありますね……。
今日でお別れのスタッフさんがいつもInstagramやFacebookの長尾の「日々の詩」を読んでくださっていて、
「僕の日常に詩が入ってくる毎日は特別でした」
と言ってくださって、本当に詩人としてやってきてよかったなとしみじみ思い、そのスタッフさんともう本の話ができなくなるのがとてもさみしいです。
あんまりなじめなかった時もあったけど、SNSというものがあってよかったなと本気で思いました。
他にも3月でやめてしまうスタッフさんが長尾に挨拶に来てくれて、
なんだかなんだか春ですねな日々を送っています。
切ない、泣きそうなので帰り道に鶏レバーを買い、じゅうじゅう焼いて食べ、ちいかわのお茶漬けをかわいいかわいい言いながら買ったのでした。
ちいかわありがとう、おにぎりにまぜておいしく食べるね。
ドライヤーが壊れちゃった夕方で、切なささらに増してますが……
なんとか低気圧乗り越えようと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?