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【短編小説】名前

 あ、そうか私、三十代になるんだ。梨花は唐突にそう思った。食洗機の回らない金曜日の夜は、梨花にとって不思議な時間だった。夫の雅明が仕事部屋に入り込んで仕事をこなしているうち、梨花はコワーキングスペースから帰ってきて早めの夕食をファストフードで済ませ、保湿をしながら動画サイトで懐かしい曲のミュージックビデオを見ていた。それは立春少し前の日で、エアコンの暖房もよく効いていた。何かと不安は多いものの、梨花はフリーランサーとして真っ直ぐに道を進んでいるところだ、と梨花自身は思っている。雅明にもらった猫の形をしたクッションが、梨花を見つめていた。
 梨花は自分が何か優れたものや、優れたものを持ち続けているとは思っていなかった。ただ、梨花の文章には梨花自身が気が付かないだけの魅力があると雅明は聞かなかった。梨花のことを誰より応援してくれていたのは雅明だった。
 立花さん、結婚して四年なんてまだまだだよと今日のランチで宮下さんに言われたっけ、と保湿クリームを目の周りにぐるぐる塗りながら梨花は思う。宮下さんは七十代、梨花の父親くらいの世代の人だった。雅明の詳細な仕事は色々彼が持つ仕事がありすぎて梨花にはわからないが、この人は「何か」を見抜く力がある、と梨花は付き合っている間から思っていた。それがなんなのかはわかんないけどさあ、と独り言を言って、ビデオの「もう一度見る」のボタンの上のバツ印をタップした。たちばなりか。梨花は自分の名前を唇だけで言ってみる。たちばなりか。本名だけど本名じゃない、この名前。なんだろうこの違和感。スマートフォンを開いて父親からのメッセージを見ると、梨花の書いた写真詩集の表紙が映っていた。私がなりたかった、本当の私。そう、それが私の名前、遠藤正美だった。
 遠藤正美。どこにでもいそうな名前だけど、梨花にとってはとても大切な名前だった。そしてそのことを知っているのは、雅明だった。最初に仕事の飲み会で名刺を渡してくれてからメールでランチに誘ってくれて、それから意気投合して雅明と鎌倉に行った時のことだった。まだ梨花がショートヘアにする前で、今は嫌いなマスカラを上瞼と下瞼のまつ毛の両方に塗っていた時だった。ねえ立花さん、遠藤正美っていう人生もありじゃないですか? と梨花は雅明に聞いた。少し夕暮れ時になる前で、雅明はそういう時間帯が好きなのを梨花は知っていた。遠藤正美ねえ、と雅明は言った。いいと思うんですよ、自分と違う人生がもう一つあったとしたって。私は何にでもなれるのだー! 梨花は思い切って自分のウエッジソールサンダルを空に投げた。もうぼろぼろの、使い古されたものだった。サンダルは弧を描いて海に落ちた。雅明は大笑いした。どうしたんですぅ急に! 僕に買えって事ですか! そうじゃなきゃこんなことしませーん! 梨花はその時、遠藤正美として生きることを決めた。そして、立花梨花として生きることも。
 私が私として生きる時、それはどんなに過酷であったとしても、何かを得るために誰かに何かを届けるものを書く。遠藤正美はそういう人だ。私が遠藤でも立花でも、根っこは一緒。仕事をしている私、文章を書いている私、コワーキングスペースで挨拶を交わす私、友人とカフェに行く私、雅明とデートに行く私、理不尽な世界に立ち向かっていく勇者になれなかった私。どれもみんな、私であっていい。そしてそれは、もっと光を届けるものであっていいのだ。

 ねえお父さん、雅明のことどう思ってる? お父さんは遠藤正美より立花梨花のことを気にしていてほしいなあとか思ったりするんだけど、たぶんお父さんにしてみたらどっちも一緒なんだと思うからそんなばかなこと聞かないよ。

 正美、もう昔の事になっちゃったね。雅明に話したことはあるけど、雅明はもう話題に出さないよ。多分、覚えててくれてるんだと思う。だから私に言わないんでしょ。

 私が言えなかったこと、言わなかったこと、選んだこと、選ばなかったこと、雅明と一緒に考えてくれてありがとね。

 梨花の父がもうそろそろ実家に帰宅してくる時間だ。今日もきっとどてら姿、庭で煙草の一本は吸うかもしれない。その煙の行く末を、梨花も正美もきっと、誰も知ることなく夜は更けていく。

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