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おじいちゃんの映画ノート

 わたしには今現在「祖父」がいない。たぶんこれからもずっと、いない。父方の祖父はわたしが生まれる前に亡くなってしまっていて、母方の祖父はわたしが十歳の頃他界した。

 なぜ祖父のことを書こうかと思ったかというと、たぶん祖父が洋画・映画好きだったからだと思う。岩波ホールが今年七月末に閉館、というニュースを受けて、あまり映画を見ないわたしでもかなりのショックを受けた。

 それは少し置いておくとして、わたしは今三十を手前に、どんどん母に似てくると思っている。卵型の顔、どんなに食べても太れない(間違えないでほしい、太らない、ではなく、太れないのだ)体、くせっけの量の多い髪。新年に少し実家の会食をした際に、二年ぶりに会って近況を伝え、笑顔で活動を応援してもらってとてもうれしかった。

 しかし、母は祖父に似ていると気がついたのはここ最近のことだ。認知症になって亡くなった祖母も記憶に新しいが、祖父は母よりもひょろひょろで、でも晩年まで肺を患うまではずっと健康に歩いていた。とても頑固だけれど生真面目なひとだった。

 祖父の書斎というものがあった。長身の祖父が眠れるくらいだから特注だと思う、革張りのソファがあり、「おじいちゃんの昼寝の時間」というのはもはやわたしたちにとって常識だった。祖父はわたしたち兄弟が土曜日遊びにきても、どこかへウォーキングに行っているか、革張りのソファで寝ているかだ。でも、夕食を祖母が毎週通っているスーパーマーケットで買ってくれて、スコッチウィスキーを飲みながら煙草を吸い、孫たちにくしゃくしゃの笑顔を見せていた祖父の顔は、なんとも幸せに満ちていた。

 祖父の書斎には大きなロシア製の写真の額縁、どこかから頼んできた絨毯、そして革張りのソファ、膨大なメモ帳の山、テレビ・ビデオデッキと洋画を撮りだめたたくさんのビデオテープの山があった。祖父が眠っている間だろうか。わたしはそのメモノートを開いてしまったことがある。一日の歩数、数行の映画(洋画が多かった)の感想、体重、一日の所感が割合こまめに書かれていた。なぜだろう、わたしは喘息持ちだったのに、祖父の煙草の匂いだけは好きだった。祖父はウォーキングと昼寝を趣味としていた。今のわたしはその記録魔の祖父にそっくりだと、思う。

 祖父は煙草の吸い過ぎで肺がんにかかり、わたしと最後に交わした会話は、

「うん、がんばる」

 だった。わたしたち家族らしい最後の一言だったように思う。

 祖父の撮りだめた映画、そしてきっと一人で行っていた洋画の映画館については、わたしは何も知ることができない。ただ、祖母は映画が嫌いだったということだけは記憶している。

 わたしは年々、母というより祖父に似てきている。記録魔なところ、昼寝を毎日するところ、ウォーキング好きなこと。今、もう一度誰かを「おじいちゃん」と呼ぶことができたら、と少しだけ思う。祖父はわたしが文章を書いて生きていること、結婚したことを知らない。わたしが二十歳になって母の着物を着たこと、大学を卒業したこと、図書館で働くようになったこと、ウェディングドレスを着たこと。結婚してから割合すぐに流行り病の時世になり、報告できなかった。さみしい気持ちは、確かにある。

 これから、夫がリモートワークの合間にコーヒーを淹れに来る。この家族のことも、いずれ教えてあげたいと切に願う、冬の晴れ間なのである。

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