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詩「朝を待つ」と物語の役割について
1年前の現代詩の会の合評会で、詩「朝を待つ」を発表しました。(リンクはエブリスタです)
祖母のことは、いつか、孫である私が書かなければいけないテーマなんだろうな、とずっと思っていました。
家族のことを書くのは非常に体力と気力を必要とするので、書こうという気持ちから逃げようとしていた自分もいました。
世界は理不尽なことであふれています。些細なことから、大きなことまで。だからこそ、私たちは生きながらじたばた、じたばたしているんです。
祖母の記憶がしっかりしているうちに、祖母の生きてきたことをまとめようと思っていましたが、かないませんでした。
私がショートショートの小説を書いたり、詩を書くとき、何らかの衝動や喜怒哀楽の激しさが必要になってきます。
日々の生きづらさを、物語ること・うたうことによって作品に昇華させていく。
私が「生きる」ということに対して答えたのは、そういうことでした。生きづらくなったら、書く。自分が生きていることを、何らかの形で証明する。
信じていたものによって、「忌」が「祭」と呼ばれるのは、不思議なことであり、祖母の遺してくれた最後のプレゼントなんだろうなと思います。一年祭、かあ。
このコロナの影響で、私たちは一年祭を家で迎えることになりました。なんだかそれも、不思議な感じがします。
私は笑っちゃうほど生きづらさを多く抱えていて、以前より対処の仕方を覚えてきましたが、まあ友達にも家族にも心配されますね(笑)そんなことで……ということに一喜一憂するし、はたから見れば「大丈夫?」と聞かれるくらい顔がこわばっていたりします。
だからこそ、私には物語が必要だった。自分と向き合うために、文藝が必要だった。
私はもう一人の小さな女の子であるさなえちゃんに、物語をせがまれているのかもしれません。小さな子が、「今日は〇〇のお話して」とせがむように。
梅雨が明けて、太陽が笑ってくれているように感じます。夏がまた、来ました。
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