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宗教とその個人的理想

こんにちは、猫ねっこです。

善き宗教、と言ってもただ単に私が善いと思う、そんな宗教に対する理想についてです。特定の宗教を批判したり評価したりする意図は全くございません、何卒ご理解ください。

まず、宗教とは主体的に喜んで自分から求めるもの、少なくとも自他を尊重して大切にする事を重んずる教義でなければなりません。特定の存在を攻撃したり、比較批判しあったりするものではいけないと思うのです。宗教に必要な事は少なくとも、隣人愛、和合、融和の精神です。この世全て、即ち極悪人であっても仏(全宇宙的な存在と私は考えます)の働きの顕れでありますから、大いに憐れむ事はあっても憎む事、責める事は絶対にしてはいけないのです。仮にその憎しみが相手に届くとしても、先ず自分自身の心身を大変に切り裂く事は明白です。

そうして、教説において沢山の解釈ができる、そしてそれらを大切にできるという事も大いに重要と感じます。細かく分派してきた宗教がほとんどですが、争いはいけません。たとえ袂を分かつ事になってもやはり相手を敬う心が無くてはその派閥は危険な思想に堕つると感じます。
そうはいっても分派してゆくことで沢山の解釈が同時に存在できますからとても善い事なのです。

また、殆どの宗教に於ける聖典は大変な戦乱の時代に記されたものです。故に、少なくとも現代にあってはリテラル(literal)に、即ち字面そのままの意味で解釈するものではありませんし、神仏に心を委ね行間の真意を頂いてゆく事こそ信仰を持つ者の義務でしょう。
多くの場合、法律に触れる教義は社会通念に合っておらず危険な思想とされます(独裁国家等に於いてはその法律の問題こそ難しいのですが)。

尤も、布施(献金、寄付とも言われる様です)に対しては自ら主体的を持って、大いに喜んで行うべきものです。神仏の為に自らを使っていただける喜びとでも言えましょうか。自分自身や周りの人に苦しみを与えたり我慢を強いる“布施”については、それは布施ではありません。また自らの望む生活を我慢して行う布施もあまり善いものでは無いでしょう。無論他人に強要するなんて事は以ての外ですよね(この意味に於いては家族こそ全くの他人であると私は考えます)。
歴史的に見来れば、東西問わず王侯貴族や実業家などはその信仰の証として莫大な財産を信仰する宗教の発展の為、神仏に捧げてきました。それには勿論、その宗教を政治的に商業的に利用しようとした側面こそ大いにあっての事です。抑、多くの場合その布施として捧げる財産は彼らにとって無理に捻出したものでは無いのですから。
また、政教の分離とは16世紀頃から起こったいわば新しい考え方の様ですし、現代社会に於いても特定の宗教と政治が融合した国家は存在しますから必ずしも政教分離が正しい姿とは言えないでしょう。

信仰する本人が奇跡やご利益を主観的にしっかりと感じられる、少なくとも信仰する喜びが存在する宗教こそ、その人に合った宗教と感じます。

絶対に無理はせずに、感謝と楽しみを忘れずに信仰してゆきたいと私は想います。



※繰り返しになりますが、この文章には単なる私見以上の意味や意図はありません。

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