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仕事とスポークンワーズ①(中学受験塾)

はじめに

「仕事とスポークンワーズ」というテーマで、いくつかのテキストを書きたいと思い立ちました。6回くらいのシリーズで、3月中に完結することを目標に書き始めます。

書きたくなったきっかけは、年明けからの就職活動で過去の職歴を振り返ったことです。また、俺のスポークンワーズの師匠筋である飯田華子ちゃんが、文芸誌「東京荒野」最新巻で自身の「裏の職務経歴書」(夜職などの職歴とライブ活動の経歴を綴った名文)を書いていたことにも影響を受けました。俺の場合、ずっと喋る仕事を続けており、仕事とスポークンワーズ(ライブ活動)に密接な関わりがあります。てか切り離せません。そこで、キャリアの節目に職歴と芸歴の関わりを振り返っていくことをやってみたいと思いました。

中学受験専門塾への就職(2002年〜)

第1回の今回は、大学を卒業して最初に就職した中学受験専門塾での日々を振り返ります。大学演劇に明け暮れた俺は、就職活動をするにあたって目標などありませんでした。かといって奨学金を返済せねばならなかったので、フリーターで演劇を続ける選択肢もありませんでした。とりあえず正規雇用を目指して、就職氷河期だったから60社以上応募した。そこで内定が取れたのが3社。一つが現在も神奈川県で隆盛を誇る学習塾のSTEP、もう一つが神奈川を中心に関東に展開する進学塾 日能研、もう一つが学生用マンションを扱うJSBという会社です。奇しくも子どもや学生を相手にする仕事ばかり。単純に採用選考を受けていて最も楽しかった日能研を就職先に選びました。

俺は社会人としてのキャリアの約半分が講師業ですが、最初から先生を目指していたわけではなく、なんとなく流れでそうなったのでした。その証拠に教員免許を持っていない(笑)。モグリの先生です。日能研では新卒数十名のうち希望が通った者6名が教務(講師)の配属になり、残りは教室運営スタッフになりました。そんなわけで、人前で授業なんてしたことがないのに社会科の先生として中学受験に携わることになりました。

社会人になって最初にもらった辞令(講師としてのキャリアのスタート)


塾屋とスポークンワーズ

初めて入った塾の世界は結構アナログで、社員は絶えず口頭でのコミュニケーションを取っていました。教務(講師)は集団対面授業で、運営(教室スタッフ)は面談や保護者会で、とにかく喋る。人前で話ができないシャイな感じの社員は現場には少なく、みんなパワーと愛嬌がありました。また、会社の変化のスピードが早く、平均年齢が若かったです。本部長クラスでも40代前半で、30代で課長、20代後半で教室責任者を任されており、50代以上の社員は少なかった記憶があります。

講師も教室責任者も、キャリアのある者は全員が保護者会でスピーチをする機会があります。そこで説得力のあるスポークンワーズをかまして、新規入会につなげる。また、入会済の家庭に対しては自宅での適切な学習指導の方法を啓蒙するのです。保護者会は親御さんに授業するような側面があり、通常の授業よりも難しかった記憶。入社して間もない新人は、そうした先輩や役職者の保護者会を見学します。役職についてる人間が、スポークンワーズで自分より圧倒的な力を持っていると説得力がありました。授業ならば子供が相手なので若い講師にも勝ち目があります。(歳が近ければスムーズにやり取りもできるし、けっこう素直についてきてくれる)しかし、保護者会は知識的にも対話のスキル的にも高いものが必要であり、困難でした。

優秀な先輩講師は、毎年受験期が終わった直後に入試問題のトレンドを特集する大型の保護者向け講演会(ホールクラスの会場で複数回開催される)のスピーカーに選ばれていました。パネルディスカッション形式で複数の講師がいわば仕込まれたトークを展開するのですが、事前に何度も稽古があり、新人からベテランまで同席してフィードバックをしていた記憶があります。今でも覚えているのが、リハで先輩がとんでもなく気の利いたフリースタイルをかまして場が沸いた瞬間です。言葉のドリブルやパスの精度で「沸く」という結構変態的な職場でした。今そこに入ったら、俺はそこそこやれる自信があります。しかし、当時は難しかったです。「初見の大人たちがたくさんいる場所で気の利いたフリースタイルをかます」スキル。それこそがどの仕事でも役に立つ職能だと今となっては思います。

生徒との関わり・ライブの場数

いざデビューして授業を担当すると、目の前にいる子どもたちとすぐに仲良くなり、単純な知識の伝達であれば比較的スムーズに進みました。(本当は知識ではなく学び方・考え方を伝えて、自立を促すのが吉ですが、とりま知識が伝われば社会科は点が取れる。)大学4年の時に猫道一家という自身の演劇ユニットを旗揚げして脚本・演出を担当していたので、演出として稽古を進行するようなスタンスで授業をしていました。つまり、集団を統率することに慣れていました。(猫道一家は就職後も継続していた)

そんな俺にとって、忘れられない出来事がありました。夏休みを利用して行われたハードな体験学習プログラム(4泊5日くらい)の引率をすることになったのです。栃木県にある全寮制の私立中高の建物を貸し切って、連日体験学習です。しかも、班の編成は、通塾していない子どもや普段は別の教室で学ぶ子どもが混ざっており、年齢もバラバラ。なかなかまとめるのが難しそう…。なぜかエアコンがない環境で、少ない睡眠時間で勤務し続けるのは結構地獄で、最終的に俺は熱中症っぽくなってしまいました。その時、頭痛を抱えながら引率している俺に対して、小学校3年のハリガネくんというタフな少年が「頑張れ!俺がついてるからな!」みたいな熱い声かけをして支えてくれたのでした。すごく驚いた。俺は一応大人だし引率だけど、何かあったらそうやって子どもに助けてもらいながら進めるのもありだと思い、大変フレッシュな経験でした。

例えば、上記の経験は今のライブ活動だったら、本番で機材トラブルがあった時に通じるものがあります。俺がごまかして即興をやりながらリカバリーすると、お客さんの方からそれを支えるようなヤジを入れてくれたりすることがあります。ライブでは、やりとりが成立して場が進めば良いわけで、トラブル発生時は人の力を借りながらも場を作っていく柔軟な対応が求められます。そんな「しなやかさ」みたいなものを身につけるための「最初のつまずき」が、引率で子どもに支えてもらった経験かもしれません。

後に講師として長く勤めることになる別の進学塾 市進学院では、そうした生徒とのやり取りで場を進行していくことを「共演授業」と呼んでいました。とにかく、仕事がライブっぽいのが塾講師です。夏期講習中などは朝から晩まで授業で、スポークンワーズのライブ力は必然的に鍛えられました。当時の生活は週末に猫道一家の稽古を仕切り、普段は担当クラスを仕切るというもの。いつも大きな声で集団に話をしていました。時折「なぜそんなに声がよく通るのか」と聞かれますが、大学演劇でテント芝居をやっていたことだけでなく、小学生相手の集団対面授業をレギュラーでこなしていたことも猫道の声を鍛えたと思います。

【次の記事】仕事とスポークンワーズ②(声優専門学校)はこちら▼


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