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ショートショート『アインシュタインの蝶』

ショートショート
『アインシュタインの蝶』

昆蟲宝石こんちゅうほうせき専門店・インシュタインの蝶】――そう刻まれた店の看板の前に若い男女が 硝子ガラスケースのようなものを抱き、佇んでいた。
 空は墨色と藍色。闇のグラデーションに染め上げられ、夜も深い。
 闇だけではなく誰もが最も眠りの深い時間帯だ。
 店先に灯っている 燈りあかりはマーブルの色ガラスがなんとも妖しく美しい雰囲気を醸し出している古色めいた 洋燈ランプである。
 どこに潜んでいたのか、ゆらぐ燈りに誘われるように絶え間なく羽蟲が集っては、去って行く。蟲たちの織り成す黒いレースの如きチラチラとした影絵に男がハッとする、そして傍らの女に顔を向けると目配せをし、二人で意を決したように店の扉を開いた。
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 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。お客様方ならきっとまた来て下さると思っておりました。虫籠と蛹はこちらでお預かり致します。ああ、二匹のうち一匹はもう羽化し終わりそうですね」
 店主が受け取った 虫籠むしかごの中では蝶の蛹のようなものが二つ。一つからは既に 白緑びゃくろくの蝶のような虫が蛹から出て自らの羽に体液を送り、ゆっくりと羽を伸ばしかけている所であった。
 蝶のような――そう、その むしは蝶にしては胴が太く、そして 頭部が異様に大きかった・・・・・・・・・・・
「今回も大きいですね羽が固まるまで時間がかかりそうだ。珈琲をお淹れ致しますので、どうぞおかけになってゆっくりお待ち下さい」
標本を傷めない配慮からか、店内の照明は薄暗かった。しかしながら陰気な風情でないのはひとえに 其処彼処そこかしこに飾られている宝石の煌めきのおかげであろう。
 宝石店のような硝子ケース製のカウンター、その中にも様々な大きさ、そして色とりどりの宝石・貴石が並んでいる。
 壁一面には昆虫の標本が飾られていた。標本と宝石、両方が並べて飾られている硝子ケースもある。
蟲たちは 大小雌雄だいしょうしゆうの個体差はあれど、全て同じ種類の蟲だった。
 羽の美しさは蝶のそれであるが、若い二人が持って来たのと同様にどの蟲も異常に頭部が大きい。
 遠目から見ると単に大ぶりの蝶を展示しているようにも見えるが、近くで観察すれば様々な羽色の蝶たちの頭部から落花生のさやのごとき瘤が生えているのがわかる。これがこの可憐な蝶をより大きく厳めしく見せているのだ。
 店主がカウンターの奥から珈琲を銀盆に乗せて戻ってくると、二人の目の前に置くや、問うた。
「さて、今回はどうなさいますか? 成虫のみをお売り頂くのも、中身のみをお売り頂くのも、勿論いつもの様に両方お売り頂くのも歓迎致します」
「両方お売り致します。それと……」
若い男は緊張で乾いた口を潤すように珈琲を一口啜り、言った。
「実は今回で 飼育者しいくしゃを卒業させていただこうかと思いまして」
 店主の瞳に驚きの色が浮かんだ。
「それはまた……。何か事情がありそうですね。差し支え無ければ教えて頂けませんか?」
「いつも僕たちの蝶を高く買い上げて下さり、本当にありがとうございます。僕の夢の事は最初にお会いした時にお話しましたよね」
「はい。小説家になること。……でしたよね」
「お店から蟲……アインシュタインの蝶をお預かりして『成虫になるまで飼育する』という仕事を紹介して頂いたのはもう五年も前の事でしたね。一匹で僕のアルバイト代の年収を軽く超える額を掲示して下さった時は本当に驚きました」
「いえいえ。アインシュタインの蝶はご存じの通り一匹育てるのに大変な手間暇がかかります。なんせ二人一組のカップルで交互に面倒をみないといけない」
「はい。おかげさまでここ数年は執筆に専念する事が出来ました。それで……先日、出版社から僕の作品が大賞を受賞したとの連絡が届きまして」
「なんと。おめでとう御座います。ですが失礼を承知で申し上げますが、それでしたら作家業が軌道に乗るまでは飼育者も続けられた方が宜しいのでは?」
「……そうかもしれません。でも、願掛けをしていたんです。『もし大賞を取れたら筆一本で生きていく、そして彼女と結婚する』って」
「ご結婚を……! そうでしたか。それはそれは重ねておめでとう御座います」
 若い二人に優しく微笑みかけた店主は、ふと何事かを思いついたのように口元に手を添え、思案しはじめた。そして再び二人に顔を向け、言った。
餞別せんべつと言ってはなんですが、特別にアインシュタインの蝶の秘密をお見せ致しましょう」
 店主はそういうと慣れた手つきで彼らが持って来た虫籠を開け、羽化した方を止まり木ごと取り出すとカウンター上に展翅板を広げ仰向けに羽を止めた。
 通常、昆虫標本を作製する場合は殺生してから展翅するが、アインシュタインの蝶の六本の脚は確かに生きて動いている。
「よく見ていて下さいね」
 店主の蟲用のメスがアインシュタインの蝶の巨大な頭部に入る。
「きゃ……」
「お嬢さん、蝶の方は心配いりません。」
 切れ目からピンセットを入れ、中から取り出したのは大粒のダイヤモンドであった。
「やあ。これは素晴らしい。虹色ダイヤモンドです。初めて見ました」
 店主は顔をほころばせながら、蝶の頭部から取り出した貴石を眺めすかしている。
「ど、どういう事ですか? 蟲から宝石が出てくるだなんて……いつも仰っていた『中身』とはこの事だったのですか」
 驚きを隠せない若いカップルとは対照的に店主は落ち着いた様子で微笑み、ゆっくりと語り出した。
「お客様方からは今までオパールが出てくる事が多かったのです。どれも見事でした。最も、もう殆ど売れてしまいお目にかける事は出来ませんが。そうですね、他にも……。
猫がお好きなカップルからはキャッツ・アイ。
 ダンスが趣味で情熱的なカップルからは真っ赤なルビー。
 登山が好きなカップルからは深緑のエメラルド。
 海近くにお住まいのカップルからは紺碧のサファイア。
 中には固まらずへどろが流れ出てきた事もありました……。
 飼育途中でお別れになって当店に二度と現れない方々も多くいらっしゃる。
 こう考えると飼育者のお二人、それぞれのカップルの相性や性格、あるいは本心のようなものを知るのにはもってこいの蟲かもしれませんね」
 そう説明しながらも店主の指先は丁寧にアインシュタインの蝶を止めていた虫ピンを次々と外し、空を掻く蝶の 脚先あしさきを自身の指に捕まらせた。そうして小鳥を愛でるかの様に眼前に持ち上げると、蝶は二、三ゆるりと羽ばたき、店の奥へと飛んで見えなくなった。
「本能で店の奥に温室があり、仲間がいるのがわかるのでしょう。そこで残りの命をかけて己のパートナーを探し、次の世代へと命をつなぐのです」
「頭を切り開かれて、平気なのですか? あの蝶は」
「こうして石を取り出す様は一見残酷に見えるかもしれません。ですが、石が入ったままの重たい頭では飛び立つこともままならない。 かいこと同じくアインシュタインの蝶も人の手が無いと生きていく事が出来ない儚い蟲なのです」
「そうでしたか……いえ、すみません。とにかく驚いてしまって」
「私も。ごめんなさい。悲鳴を上げたりして」
「ふふ。お気になさらず。『アインシュタインの蝶』――奇妙な名前でしょう。
 相対性理論を提唱したアインシュタインは人よりも大きな頭を持って生まれ、三歳まで言葉を話すのが苦手だった事は有名な話ですが、死後その頭の中身、つまり「脳」の 検死解剖けんしかいぼうを担当した医師の手により無断で持ち出された事はご存じですか?」
「い、いいえ」
「初めて聞きました」
「身の毛のよだつ話ですが持ち出した男はあくまで好奇心と善意。人類の宝ともいうべく天才的頭脳をそのまま火葬して、無に帰してしまうのが惜しかったのでしょう。持ち出された脳は彼にじっくり観察されたあと、スライスされ、研究の名目で世界中の学者に送られた。ご家族からするとたまったものではなかったでしょう。この蝶を発見した昆虫学者は、おそらくそうした外見、曰くの類似から命名の天啓を受けたのでしょう」
「……」
「……」
「しかしながらこの蝶の故郷の国、現地ではこうも呼ばれているのです『恋人たちの蝶/ Lovers' Butterflyラバーズ・バタフライ』と。
 先ほど申し上げたカップルの相性を知るのにもってこいの蟲だという由縁です。
 この蝶の原種を育てていた部族──コミュニティのカップルは一様に仲睦まじく、そして美しい宝石で出来た装飾品を身に付けていた。
 近くに採掘場があるわけでもなく、一見宝飾品とは無縁の彼らが持っていた色とりどりの貴石の入手先を疑問に思った学者が居ました。その学者は長いことそのコミュニティを観察し、宝石がある種の奇妙な蟲からもたらされる物だと気がつきました。
 そのコミュニティの恋人たちは結婚が決まると、族長からそのある種の蟲、『恋人たちの蝶』の幼虫を渡されます。それから婚約期間中に二人で交互に世話をし、羽化まで責任をもって育てる。羽化したその日が結婚式で、皆の前で宝石を取り出し、色やカタチによって家庭を占い、そうしてお守りとし生涯身に付ける。
──そんな浪漫チックな風習と蝶の生態に魅せられたその学者は『帰国したら故郷の恋人と大切に育てる』と族長に頼み込み、『恋人たちの蝶』をわけて貰うことに成功しました。
──ですがそこからは思う様にはいきませんでした。帰国する頃にはとうに恋人の心は彼から離れてしまっていた。
 その時に学者としての熱意や研究への意欲も失ってしまったその男ですが、さすがに蝶をみすみす死なせてしまうのは忍びなかった。彼は、自分たちの代わりに上手く飼育してくれるカップルを探し出し、今も『恋人たちの蝶』──いえ、『アインシュタインの蝶』たちと共にどこかでひっそりと昆虫宝石を扱うお店を開いているそうです」
「店長さん、 貴方あなたは……」
「おや。そろそろ夜が明けるようですね。だいぶ空が白んできました……。それに、ご覧下さい。もう一匹の羽化が始まってますよ」
 硝子の虫籠の中に残されていたもう一つの蛹から、つぶらな黒い瞳を持った生き物が顔を出していた。
「さて、私のつまらぬ話はこれくらいにしておきましょう。お二人ほど良質に商品を育てて下さる飼育者はなかなかいらっしゃいませんでしたので、正直たいへん残念では御座いますが、どうぞこの石の輝きに負けないくらい、お二人の未来が輝かしいものとなりますよう影ながらお祈り申し上げております」
 言い終わるや薄暗かった店内に朝日が差し込み、蝶の漆黒の瞳に光が灯る。
 命が起動する。
 蟲に魅入られた男がうっとりと蝶に語りかける。
 ──おはよう。ようこそ、世界へ。

ああ。夜が明ける。世界が動きだす。


(了)


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