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「土」が足りないということ

noteフェスを観ていたら、作家で写真家でアーティストの坂口恭平さんという方が私にとって、とても重要なことを言っていた。

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躁鬱病だった坂口さんは、畑仕事をしているときに、土に触れていると不意に神の啓示のように、現実的な感覚が降りてきたという。

木漏れ日、土、生き物…そういうものを全身で感じ、そこから坂口さんの表現も生き方も変わってきたとか。
それ以前は、風景など見ておらず、自分の内面ばかり見ていたという。

「僕は、風景の記憶がないんですよね。ずっと自分の内面ばかり見て過ごしてきたから」

という言葉に、非常に共感した。
私に足りないのもきっと、土を、世界を感じることなのだと思う。

それと関連して、以前、人に私の小説を初めて読ませてアドバイスを貰ったときのことを書く。
そのとき私は、まさしく「土」が足りないと、そう言われたのだった。

先にカフェに着いていたその人は、すでにコーヒーを注文し、ハードカバーの本を5冊も抱えて読んでいた。

シンプルな服装でメガネをかけた彼は、週間占いを書いてる占い師なんだけど、多方面に博識で、「すべてを知りし者」という雰囲気(?)があり、感情的なものが薄いというか、『概念』っぽい感じがする。

私はとにかく、私の小説もどきを誰かに読んで欲しかった。
でもそれ以上に恥ずかしかった。
とくに、私のことを知っている人に読まれるのは。
そこで、当時、一回しか会ったことがなくて私のことをあまり知らず、それでいて確かな審美眼と知識量のありそうな彼は適任だった。

思いついて連絡をしたら、その日のうちに会うことができた。必要な縁は繋がるものなのかもしれない。

彼は、小説を構成する要素を、「火・水・土・風」の要素に分けた。
火は思想で、水は感情、土は自然や風景、風は社会的視点なのだそう。
4要素の区分は、元々は宮台真司さんの考え方なのだとか。

私の書いたものを、

「火と風が強すぎて、土が全く足らない」

と、批評した。それでつまらなくなっていると。

土、つまり自然の描写が全く足りてない。
逆に、思想と社会的視点は多すぎるのだそう。
それ、小説というか論文じゃん…。

コラムとかインタビューとか論文みたいなものは、一応仕事にしてるくらいなので、それなりに自信がある。
でも、私は小説を書きたい。

私は哲学的な小説を書きたくて、私の好きなドストエフスキーや平野啓一郎の、主人公がひたすら思想を話し続けるあの感じに憧れて事故った感じですね。恥ずかしい!

もちろん、小説において思想や社会的視点が多いのが悪いわけではなく、自然や風景の描写を描いて世界観を完全に作り上げた上で、終盤やクライマックスに思想や内省的描写を多く入れるのならアリだと、彼はいう。
確かにドストエフスキーも平野啓一郎も、風景描写がめちゃくちゃ上手い。

うまくいってる例として、彼は、メアリーシェリーの『フランケンシュタイン』を挙げた。延々と続く鬱蒼とした森の描写が素晴らしく、それによって物語そのもののおどろおどろしさや主人公の心理を上手く表現しているのだそう。
また、季節や自然への感性の磨き方として、俳句に親しむことも勧められた。

結論からいうと、相談して良かったですほんと。

やはり、登場人物に喋ったり考えたりさせるより、周りの描写で表現していったほうがいいんですよね。

世界を感じ切るのが怖くなって、ある時点から感覚を麻痺させて、そうして自分を守ってきた私に、良い小説を書くことはできるのだろうか。

それにしても最近の私は、凝り固まってるなあと感じる。身体も頭も心も。
それで良いものなんて作れるわけない。
柔らかく、自由に、心地よく在りたい。

茨城から東京に移り住んでから、もう10年以上が経つ。
私が最後に、土に触れたのはいつだろう。そこに全てがあるんじゃないか。頭の中じゃなくて土の中に。

坂口恭平さんのように、木漏れ日や土をちゃんと感じられる日はくるのだろうか。

最後に、自殺直前だった坂口さんが救われたという、哲学者キルケゴールの言葉を引用する。

人生とは、解決すべき問題ではなく、味わうべき神秘なのですよ。ーセーレン・キルケゴール

せっかく生きているのだから、神秘を味わって生きていきたい。土に触れたい。
そしたら、そのうちに書けるようになるかもしれない。

#コラム #創作 #哲学 #noteフェス #小説

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