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父が亡くなる時

お父さんの思い出話を何回かに分けて。

使わせてもらったウイスキーの写真は、お父さんが毎日ストレートでウイスキーを飲んでいたから。ストレートのウイスキーがグラスに入っていると、父を思い出す。

*病気の話です。気持ちと体調を第一に読んでください


父は21年前、くも膜下出血で亡くなった。

その時の私はすでに結婚していて同じ市内ではあるけど、家を出ていた。結婚3年目。

母から、お父さんなんだかおかしいんだけど…と電話が来て、症状を教えてもらい救急車が賢明だろうと判断して私が呼んだ。実家の住所、電話番号、父の名前と生年月日、症状を話して救急外来へ連れて行ってもらった。

今思えば、難聴の母、よく電話で話をして理解できたなと思う。冷静だったな、と。


よく頭をバットで殴られたような痛みと聞くけれど、父は寡黙で気丈な人だったからなのか、母に痛いとも変だとも何も言わずにいたらしい。ただ玄関に嘔吐物があり、通院していた母が帰宅した時にはソファに座ってもたれかかっていたようだ。

父の片隅には家庭の医学のような本があり、母と交わした最後の言葉が「俺はくも膜下出血だと思う」ということ。痛みの中、本を見て調べる気力があったのか。母も私もその時を見ていないのでわからない。

母が外出する時に父は庭に出ていて、小さな庭だけど土を耕していたり、雑草を抜いたりしていたらしい。

母が一緒に乗った救急車の中では無意識だろうと言われたそうだけど起きあがろうともしたりしていたらしい。


病院に着いてから母から連絡をもらうことにしていたので私は直接病院へ行った。平日だったけど、私の仕事が木曜の午後が休みでたまたま体が空いていたのだ。そして私の旦那も私に合わせ木曜を休みにしていた。おかげで二人で行くことができた。

病院に着いてからが長かった。父が意識もない状態なのに検査をしなければいけない事や、結果が出てからしか先生の説明が聞けなかった事。何時間待ったかと思うほど長く感じた。


あの時の私は気持ちの混乱でほとんどを覚えていないのだけど、検査中に再度嘔吐したこと、くも膜下出血であること、手術をするかどうかということ。説明された中でそのことだけは覚えている。

救急車に乗って亡くならない状態で病院に着き検査もできて、それで手術するかどうしますか?なぜそんなことを聞くの?するのが当たり前じゃないのかとほとんど怒りの中、お願いしますと伝えた。そんな話する前に手術をしてくれと。

でもあとから思うと、手術をしても助かりませんけど、それでも手術をしますか?という意味だったのだろう。

混乱している私たち家族はどんな状態でも手術はするものだと思っていたから、もしあの時冷静に話が聞けて冷静に考えていたら、術後に意識があるかはわからないけど父に辛い思いをさせなくて済んだのだろうかと後悔している。


結局8日後に亡くなるのだけど、ICUに入っている父との面会は午前30分、午後30分の2回。一度に入れるのは2人。親戚などが見舞いに来てくれると私たちは面会出来なかった時もある。

これまで病気知らずでお酒が強く弱音を吐かない父が、たくさんの点滴、管、機械に繋がれて、意識がないのに再度手術と言われ頭の骨の一部をくり抜かれたままになっていて、私が正気を保つのに辛かった。父のそばにいたいのに母がいるから元気を出して笑顔で過ごすという拷問のような8日間。長かった。3ヶ月くらいの長さに感じた。

機械に繋がれた父に「お父さん!」と話しかけると生理的にだとしても、涙を流す父を見て、きっといつまでも私のことを思ってくれているはずだと感じた。


家に帰ると病院からいつ電話が来るかドキドキ過ごしていたのに、親戚から何度もかかってくるし、母は母で覚悟があったのか家の中を整理しなくちゃと片付け始める。

亡くなる日の午前中の面会ではこれまでなかった鼻血を出していた父。いつもと違うのですけど?と看護師に聞いても、いつも通りですと冷たく言われ、その直後危篤と電話が来て、私はあの看護師の顔を今も忘れない。悪気はなかったはずだしお世話をしてくれたのはわかるのだけど、忙しいのはわかるのだけど、どうしても忘れられない。


やっと楽になるね、と思った次の瞬間、私たち家族や親戚は猛烈に忙しくなるのだ。葬儀が待っている。

こちらは悲しんでいられないのだ。こんなことってある?と思いたくなるけれど、日本ではきっとみんなそうなのだろう。葬儀という、故人や家族ではなく他人のための儀式。そっとしておいてほしい、構わないでほしい、家族だけで過ごさせてほしいと何度思ったか。

特に父は元自衛官だったから、それはそれは立派な正装でお越しになる現役自衛官しかもお偉いさん方たちの数の多いこと。ここはごく普通の人間の葬儀会場ですよ?どなたかとお間違いでは?と言いたくなるほどだった。


葬儀も四十九日も3回忌も済み落ち着いてきたころ、今度は私にある異変が起きていると気づくのだった。それはまた次にでも。