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最後のサイダー

「サイダーが飲みたい。」

病院のベッドでおばあちゃんがそう言った、
私が17歳の暑い夏の日。


サイダー。
それはあの、青い丸に三つの矢のマークが付いた、透明で首長の瓶に詰められたシュワシュワ甘く美味しいソーダ水。
え、でも三ツ矢サイダーってどこで売ってるの?


祖父母とは生まれたときから一緒に暮らしたが、
小学2年生になった7歳のときに私たちだけ転居した。
少し待てばいいものを、引っ越しはどういうわけか7月のまだ1学期が残っていた時期に決行され、夏休みに入るまで新居から電車で小学校へ通うことになった。
電車通学は姉との時もあったし、母との時もあった。
私を学校に送り届け、そのあと母は結婚以来住んだ義実家に残る荷物の整理などをし、授業を終えて帰ってくる私を迎え、また電車で新居へ戻る。
そんな日々を少しの間続けた。

電車通学という体験は乗り物が苦手だった私には辛いものでしかなく、母が間違えて特急に乗ってしまい始業に間に合わないこともあった。
本来10分も乗れば着く距離なのにその駅で降りられず、40分も止まらない電車に揺られている間は、母といるのに不安で泣きそうな思いでいた。

そんな落ち着かない日々の中でも変わらずにあった祖父母の家は、戦争をかいくぐっただけあってとても古いが、小さな灰いろの門と、ほんのささやかだが庭のようなものがあった。
そしてあの時代はどの家も普段から鍵もかけず、夏には戸も開け放たれていた。
強い陽射しの中を学校から戻って玄関を入ると、一瞬視界が真っ暗に反転する。そして熱を帯びない空気に少しひんやりする。

小上がりのガラス戸の向こうには小さな部屋が一つあり、そのすぐ横の奥まった場所に置いた座卓で、祖父母は食事から何からを済ませていた。
青く透けた色をした羽根の扇風機がせわしなく回っている。
着物姿が多かった祖母も、夏には薄いクレープ生地のワンピースにエプロン姿になる。
当然祖父は肌着とステテコであぐらをかいている。
扇風機だけでは足りず団扇をあおぎながら、お昼は時代劇を見て、夕方からの相撲に備え番付表に目を通す。
祖母の定位置からは、座ったまますぐ手の届くところに食器棚があり、薄いガラスが下にいくほど細くくびれていく小さなコップと、ピエール・カルダンのカラフルな線の入ったコップが置いてあった。


1年生から通った小学校最後の日を迎えた。
教室の前に一人立たされ、お別れの挨拶を求められる。
前方からみんなの顔を見渡すと思わず言葉に詰まり、何を言えたかは覚えていないけど、クラスの一人ひとりが私を描いてくれた絵を、一冊にまとめて贈ってくれた。

そのあとの夏休みは、新居で過ごす初めての夏ということになるのだけど、まだ新しい学校に通っていないので近くに友達がいない。
「あーそーぼー」などと誰も誘ってくれないし、誘う相手もいない。
前の家の近くには公営のプールがあったのに、引越し先の都会の街にそんなものは見当たらない。
実は一番近いプールはマンションの真下にあったのだがそれはスイミングスクールで、さっさと通わせてくれていれば良かったものを、一度も足を踏み入れないまま私は泳げない大人になってしまった。

あの夏。
私はどう過ごしていたのだろうか。

当然兄も姉もまだ新しい友達がいなかったが、一人で電車で行き来できる歳だったので、適当に前の町へ遊びに行ったりしていたのだろう。
私はまだ誰かが一緒じゃないと電車に乗れなかった。
それでも記憶にあるのは、生家の前の道をただまっすぐ行けば着いた公営プールでの楽しい時間だ。
一人で行くわけもないので、きっと姉とその友達なんかにくっついて行っていたのだろう。
鳩がいっぱいいる公園の中にある、25メートルプールが一個だけの、本当にのどかなものだった。
ブロックでできた簡易な更衣室はモワッとする湿気を帯びている。ワンピースを脱いで家からすでに着てきた水着姿になり外に出ると、細い管が頭の上に何本も並んでチロチロと水が出ている下をキャーキャー言いながらくぐり抜ける。
その先にプールがあり、炎天下で水と戯れた。
さっきも書いた通り私は泳げないので、ほとんどプールのへりに捕まってパシャパシャしていただけなのだけど、やはりプール遊びというのは記憶のなかではキラキラとした楽しすぎる思い出だ。

あまり泳げないものだから、姉たちと行ってもそんなに間が持たず、先に一人で祖父母宅まで帰った。
水に浸かったあとのあのけだるい疲労感と、来しなより少しだけ傾いた太陽。
どこかの家の鉢植えの向日葵も、目を伏せるように軽くうな垂れている。
打ち水されたアスファルトから湿った空気が立ち上ると、ああ夏の匂いだなどと生意気にも思いながら、お気に入りのキャラクターのプールバッグをくるくる回してスキップ気味に来た道を戻る。

ただいまー!と薄暗い玄関で言う。
正確にはもう自分の家ではないのだけど、
他に言いようはない。
玄関はやはり冷んやりする。

おかえり、と顔を出してくれるのは決まって祖母だ。
「サイダー飲むか?」
私の返事も待たずささっと冷蔵庫からよく冷えたサイダーの瓶が出され、キャップに栓抜きがかけられる。
もちろん私が「いらない」というわけがない。
祖母の手首がくいっと動くと、瓶の蓋がポンッと小さく音を立てる。
とくとくとく、とサイダーが注がれる。
シュワシュワシュワと泡の粒が底から舞い上がってくる。
ピエール・カルダンではなく、薄ガラスの細いコップのほうだ。
口の当たる部分だけ淡く色が入っていて、手に持つあたりには草花の柄が切り子で入っている。
パチパチ冷たく透明な炭酸が弾けていく音がする。
弾けた分だけシュワシュワは消えてしまうのだから、なるべく泡が弾けないでほしい。
だけどサイダーの天辺では上に横に小さな玉が星屑が踊るように飛び交っていて、それが口元に当たってくすぐったいのも気持ちいい。

細いコップから飲むサイダーは、細いまま喉の奥へと運ばれ、小さな私にはそれくらいがちょうど良かった。
そして注ぎきれなかった残りを、祖母が色違いの同じコップでいただくのだ。
祖母はいつも、少しずつ、大切そうに美味しそうにサイダーを飲んだ。
ふたりだけの、特別で少し背徳感のある内緒の時間。

サイダーは、冷んやりした玄関先にケースで届いていた。
私が一緒に住んでいたころにはなかったことだ。
祖母は、自分たちが飲むために頼んでいた。
私の母はジュースなどをあまり子どもに飲ませない親だったから、その方針に従って一緒に住んでいるうちは祖母も控えていたのかもしれない。
でもサイダーは、きっと戦争や貧しい時代を生き抜いた祖父母世代の人たちには、特別な飲み物なのだろう。

プラスチックケースいっぱいに届いているジュース、というのは私にとっても充分に夢のような光景だ。
もっと小さいころには父が、
よし!ジュース買ってこい!
と硬貨を渡してくれることもあった。
そんなときは兄姉3人でお金を握りしめて一番近くの駄菓子屋まで行き、大切に抱えるようにして1本か2本の炭酸ジュースを買って帰った。
同じサイズのコップを3つ並べて、いかにぴったりと公平にジュースが分けられるかを顔を横に倒して凝視していたものだ。
当然、ほんの少しの差が生まれる。
じゃんけんくらいはしたはずだが、こういうとき一番損をするのが末っ子なのは言うまでもない。
だからジュースでもお菓子でも、たくさんあるということはとんでもなく贅沢なことだ。


そうやって、引っ越しをして数年はたまに祖父母の家へ遊びに行ったと思う。
自分だけで電車に乗れるようになってからは、新しい友達を連れてなじみの公営プールへ出かけ、それが学校にばれてえらく叱られたこともある。
校区外に子どもだけで行くことは御法度だったのだ。

祖母は遊びに行く予定を伝えると、寒天を作っておいてくれたりもした。
それを一緒に行った友達にもふるまったが、友達は渋い顔をして食べ残した。
おばあちゃん子である私は小さいころから寒天を美味しいデザートとして食べて育ったし、うちのお節料理には必ず紅白の寒天が縁起物の一つとして入っていた。それはお正月でお年玉に並ぶ楽しみだった。

都会の子は違ったのかもしれない。
孫やその友達が喜ぶだろうと、せっかく作ってくれた寒天を残しておばあちゃんに申し訳ない気持ちと、友達に古臭いおやつを出してしまったような恥ずかしい気持ち。
そしてそんなことを思ってしまった自分への悲しい気持ちが重なり、思春期に向かっていく年齢も相まって、だんだんと祖父母の家にはお正月以外には足を運ばなくなった。

そんな祖母が、私たちが住む街の病院へ入院することになった。
祖母の病気はもう助からないものだった。

引っ越しをして10年。
毎年会ってはいたが、もうその頃には小さい子どものような無邪気さは私にはなく、どこかよそよそしい態度でいてしまったに違いない。
お見舞いに行くと、祖母はすっかり小さくなってしまっていて、顔を近づけないと言葉も聞き取れなかった。

そんな祖母が病床から、

「サイダーが飲みたい」

と言った。

それを受け、

「ちょっとサイダー買ってきてあげて」

と母が私にいとも軽く言った。


今なら簡単なことだろう。

サイダーとはつまり三ツ矢サイダーを意味する。
病院を出て1分でコンビニでペットボトルのサイダーが買える。
病院内の売店でも買えるだろう。
三ツ矢サイダーはどこでも売っている。
ところがその頃は、おおかた三ツ矢サイダーは酒屋さんが持ってきてくれる飲み物だった。
サイダーもバヤリースも、どこでも必ず置いてあるものではなく、あれは酒屋さんが持ってくる瓶入りの飲み物だった。
本当だ。
少なくとも私にとっては。

17歳の遠い遠い夏の日。
コンビニはある。
ペットボトルもある。
でもカルピスはまだ瓶だった。

私は「サイダーを買ってくる」という命を受け、街を走った。
残念ながら自転車で来ていなかったから、自分の足で走った。

そのとき祖母の命が今にも消えかかっている瀬戸際というわけではなかったのだけど、一刻も早く、あの、「三ツ矢サイダー」を飲ませてあげたいと思ったのだ。

他のもので代用がきくだろうか?
いやこればっかりは、今でも三ツ矢サイダーと遜色のない飲み物が思い浮かばない。
近いものはあっても、どう考えてもサイダーは三ツ矢印のサイダーで、あの味も強めのシュワシュワも唯一無二なのだ。

炎天下、点在するスーパーやコンビニの飲料水売り場をめぐった。
国道の排気ガスにまみれ、噴き出る汗にまみれ、
行った店ごとに店員さんにも確認をした。

「三ツ矢サイダーありませんか?」

ない。

ないのだ。

それくらいなかったのだ。

病院を出てどれくらいたっただろう。
ようやく見つけることができた。
それはペットボトルに入った三ツ矢サイダーだった。

息咳切って必死の形相で三ツ矢サイダーを買い求めていった女子高生を、店員さんはどう思っただろうか。

私はまた走って病院に戻った。
走ったけど、なるべくボトルは揺らさないように。
炭酸を壊さないように。
シュワシュワが消えないように。

そんな苦労も知らない母は、えらく遅かったわねどうせ寄り道でもしてたんでしょ、といった顔でさっさとサイダーを受け取って水差しのような容器に注ぎ、祖母に飲ませてあげた。
そのとき私はぐったりしていた。
だから肝心な祖母の反応を覚えていない。

でももしかすると、それは祖母の、最後のサイダーだったのかもしれない。

水差しで炭酸がうまく飲めたのかもわからないが、きっと少しづつ、ゆっくりと口に運んでシュワシュワが喉で弾けて、あの透明な香りと甘さが、祖母の人生のいろんな想い出とともに身体中に広がっただろう。

「ああ美味しい!」

そう思ってくれたと信じたい。


それから長くもなく、大好きだった祖母は旅立った。

願わくばペットボトルでなく、瓶のサイダーを飲ませてあげたかったと、それだけが心残りだ。
やっぱりなんでも、瓶のほうが美味しいのだ。
そう思うのは私が歳をとった証拠だろうか。

そして私は毎年、お正月には寒天を作る。
娘や姪や甥も、楽しみにしてくれている。

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