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小説・猫屋敷『忙と怠』

猫耳尻尾が生えている人間が、ある意味同族でもある猫を飼っている状況は、冷静に考えてどういう状況なのかと私もそう思う。
しかし皆様。ここは目を瞑るべきである。
世の中には考えてはならない事など、本当に星の数程あるからである。
猫耳キャラに人の耳が生えてるということは、耳が4つ付いている論争が代表例である。
やめましょう。

八倉商店街南門から歩くとして、大通りから歩く度に段々と細くなっていき、川の上に架けられた橋を渡ってから入り組んだ道となっていったかと思うと、現実に存在する東京都新宿区7丁目の梯子坂に似た階段を上がり、墓場の塀から突き出た卒塔婆や古く廃線になった屋根付きのバス停に目が止まりつつも、更に少し緩やかな坂を上がって歩いた所で道の途中からアスファルトやレンガの舗装路が消え、土か砂利道になりだした道の両脇には石造りの燈籠と街灯、電柱がポツポツと立っている程度となっている。
もはや横幅が広いだけの山道を少し奥へ進むと、猫屋敷を含める3件の住宅が見えてくる。
あとは空き家が4件に雑草がボォボォと生えた空き地と竹林と裏山しかなく、静かでガランとしている場所である。
噂では昔ここら一帯は首吊りや遺体隠しの名所だったり、今は緑が生えた空き地部分は醜い魑魅が鎖で監禁されていた小屋があって厄祓いとして放火されたといった、肝試しや心霊スポット場所として騒がれていたのだが残念ながら全て真っ赤な嘘である。
お陰で15年前以上前までは不良がたむろするなどしていたが今はそんな事は無い。平和である。
熊などの獣が出てきそうな雰囲気すらあるが、生息地では無いため昔から目撃情報は皆無である。
そもそも、建物が建ち並んで密集している町の商店街と住宅地から、20分程の距離しか離れている場所とは思えない場所である。

現在、朝方である。

「待って待って、今ご飯を出すから……。ああ、やめて、ズボンに爪を立てないで……」
さて、朝っぱらから屋敷の縁側部分に横長で板状の皿の上へ、袋からキャットフードを出そうとしている少年に仔猫含めた17匹の猫達は、

"飯だ、飯を出せ。はよ食わせろ、爪立てるぞ"

の如くニャアニャア、ナァーナァー、ピーピーと騒ぎ立てられながら急かしている。
ちなみに「餌」と書くと猫に対して不敬であるため、"ご飯"と言う。皆さんも見習おう。

猫達に爪と歯で脅されて苦労している少年の名は楓之助。猫耳が生えているが、何と3つ生えている。
三ツ耳である。
右側に2つ、左側に1つ。違和感でしかない。
生まれつきの奇形らしく、一瞬見てもジット見ても、2度見か3度見するほどの奇妙さである。
もしも現実世界でも人間に3つの人耳、猫に3つの猫耳が生えていたら報道騒ぎにでもなるのだろうか。
しかし今はそんな事はどうでもいい。

「……はぁー」
6時過ぎに起きて直ぐ、催促という名の大合唱をする猫達に、毎朝寝間着のまま急いでご飯を与えている。その後やっと顔を洗い、服を着替え、エプロンを付け、台所へ朝食を作りに向かいジタジタバタバタしている。息をつくのも当たり前だろう。
ちなみに先程引っ掻かれた寝間着のズボンの裾は、何度も縫い合わせてはボロボロの繰り返しである。
しかしこの楓之助少年、嘆いている暇など無い。

今日の朝飯は玄米ご飯、鯖の塩焼き、昨日の夕食の余りであるアサリの味噌汁、隣人のタケ婆さんから貰ったキュウリの糠漬けと、何ともまぁ和食である。
筆者もこういうシンプルな和の朝食を、朝に自分で作って食べたい願望がある。羨ましいのだ。嫉妬である。

香ばしい鯖の塩焼きが出来上がった所で、一方ノソノソとフラ付きながら顔を洗いに向かう、背の高い影が居た。
正体は、赤色の半纏を愛用している浅坂 亜麻仔。23歳、女性である。
ボサボサな灰色の髪と猫耳尻尾に、眠気が付け足されたボンヤリ上の空な顔である。
今もセッセと台所で働いている16歳程とは思えない勤勉的な少年に比べ、このだらしのなさは一体何なのだろうか。
筆者は困惑だが、それに不満を持たずに働く楓之助少年の奉仕精神にも大困惑である。世の中は広いがために不思議が一杯らしい。
尚、現在時刻は7時前である。
意外に彼女は寝坊魔かと思ったが、空腹の為に起き上がる事はしっかり習慣化しているらしい。
「怠け者は昼にやっと起きるせいで朝飯を食べる事が出来ない為、1日昼と夜の2食だけである」
という固定観念に囚われている証拠だろうか。
ちなみにそれは筆者の姉が休日で行っている生活である。不健康者なのだ。

「亜麻仔さん、おはようございます」
「………うん」

挨拶を返すのが常識だろう!と自分に甘く、他者に厳しいで評判の筆者は、この赤色の半纏を着た女に激怒不可避である。
しかし当の少年は気にした風も無い様子。
これが日常らしい。
そもそも朝起きたら、当たり前のように飯が作られて当たり前のように机の上に出されている日常に感謝するべきだと思わないのかね。まったく。

鯖の塩焼きの匂いが蔓延している為、様々な色模様をしている猫の6匹が庭や縁側、家からバラバラと集まって来たが、胃袋は満腹なため突撃して食い付いてくる事は無い。
それでも食べたい欲はあるようだが、彼らは利口であり弁えているため多分心配無用である。

赤半纏は箱のような図体をしたブラウン管テレビの電源を付け、ちゃぶ台前に置かれている紫色の座布団にドカッと座った。
その少し経った後に、楓之助少年がちゃぶ台の上に玄米ご飯、味噌汁、糠漬け、鯖の塩焼き、箸と箸置きを一通り乗せられたお盆を2人分置いた。
食事の準備が整った瞬間である。
楓之助も座布団へ座り込み、「いただきます」と丁寧に手を合わせて礼儀を尽くす少年に対して、一応軽く手を合わせる動作を行うものの声を発しない23歳。礼儀の皆無さに何ともまぁ、見ていられぬ。

縁側で丸くなる者、短足同士で不毛な喧嘩をする者、隣が欠伸をして自分も欠伸をする者、とりあえず雀を目で追う者、置かれた猫用厠で用を足して砂を掘る者、塀をよじ登って姿を消す者。ちゃぶ台の目の前で毛繕いしたり寝たり飯食ってる2人を観察する者。
なんとも猫という物は自由でなによりである。
人間社会とは対極的な存在とも言えよう。
人生とは、人間とは、時間とは何なのだろうか。
つい哲学が始まってしまった。

2人とも居間で何も喋らず黙々と食べているが、亜麻仔の茶碗は大盛りである。そしてガツガツ勢いを付けた食い方で、鯖はとうの昔に胃袋へ消えている。
しかも、彼女専用の直飲みヤカンが隣に置かれてある。それを時々豪快に口付けて飲みながら食べるの繰り返しである。
一方少年は静かに三角食べをしており、とても大人しく食べている。ヤカン直飲みなんてせず、1杯の麦茶の入ったコップで済ましている。
普通、男女年齢的に逆である。
この2人の落差を取り敢えず批判するのは、筆者も流石に疲れて飽きた。もうやめよう。

お天道様が下界を本格的に照らし出し、猫達が光合成という名の日向ぼっこを始める頃だろう。

楓之助は皿洗いをしている間、亜麻仔は例のヤカンを時々グビグビ直飲みしながら、箱テレビに焦点を当てている。ちなみに、気になるヤカンの中身はぬるい麦茶である。
皿洗い中の少年のスリッパの足元には、成年猫仔猫問わず何匹か集まり出して、そこで喧嘩まがいを初め出していた。時々、爪が足元に当たるため、少年は少し困った顔ではある。
ちゃぶ台に寄って来た三毛猫三姉妹に擦り寄られながら、ちゃぶ台の上に置かれた籠の中の蜜柑を一つ取り出す亜麻仔。
箱図体なテレビには、今日の天気やら魑魅目撃情報やらのニュースが垂れ流しだが、例の三毛猫三姉妹の他に、白黒ハチワレ四兄弟が登場して一緒に並んで画面を凝視しだしている。
三銃士と来たと思いきや四天王と来た。
コマーシャルが入った所で、亜麻仔は2つ目の蜜柑に手を伸ばしていた。

「すみません亜麻仔さん、お米が少なくなってきたので、今日は商店街で買い物をしませんか……?」
皿洗いを終えた楓之助が、エプロンの紐を解きながら怠け者に声を掛けた。
「……分かった」
やっと言語を発した。
シャベッタァァァァ!!というヤツだ。
「ありがとうございます。それでは……えーっと、9時半には出ましょうか?」
「……うん」
しかし、アッサリと承諾したものだ。意外である。
半纏が2つ目の蜜柑を口内に放り出して完食した所で、少年は洗濯機から取り出した服を干しに庭へと向かったのだった。
その後、掃除機がけに戸締りなどの外出準備と大変である。
尚、23歳赤半纏は先程と変わらぬ姿勢である。

家から出て徒歩20分。現在10時過ぎである。
亜麻子は化粧とは無縁であるためスッピンである。半纏は流石に脱いで上はパーカーに下はジャージと地味な姿で歩き、楓之助少年は家で着ていた服の上にジャンパーを羽織っていた。更に三ツ耳を隠すために手拭いを頭全体に巻き付け、帽子を深く被る徹底ぶりであった。
あらためて横に並んで歩いている所を見ると、頭一つ分の身長差で男女年齢とも丸っきり違い、そして性格は勤勉と怠惰と対極的な2人組である。
大体こういうのは気を遣うなりで多少気まずい関係になるはずだが、どうもこの2人は謎のバランスが保たれているのか何も気にしていない様子である。

自警団が刺股と警棒を持って門番として構える八倉商店街の南門をくぐり抜けると、そこには横に広々と伸びた歩道に、アーケードの下に延々と吊り下がった提灯と、様々な商店が北に向かって伸びていた。

和洋中華飲食店、喫茶店、屋台、駄菓子屋、不動産、服屋、雑貨、薬局・薬屋、占いと、正規店らしく綺麗な物もあれば、奇妙で怪しげな物まで様々な店が開き、商店側も客側も人間と人外が入り交じっている。
中にはシャッターをたった今開けて、営業を始め出した所もあった。
通りかかった巡回の自警団員2人組が、亜麻仔と楓之助を含めた通行人や店番に適当に挨拶をかけつつ、頭上の提灯を確認していた。
どうやら昨日中央部付近で悪戯による物なのか、矢で射られて破損された提灯が発見され、未だに犯人が発見されていないため警戒気味と物騒である。
今回2人が向かっているのは、いつもの行きつけの肉屋、八百屋、米店である。
それらの店の間隔がそこまで離れ過ぎていないので楽で助かっている。

「ユリエさん、おはようございますー。」
「あらぁ、いらっしゃあい。あらま、亜麻ちゃんまで一緒でぇー」

実はこの南門付近では、亜麻仔はアレコレあって怪力女として顔を知られており愛称が「亜麻ちゃん」である。
または一部で「化け女」などとも呼ばれるが。

「はい、お米を切らしていたので、ご一緒に来ました」
「あらあらァー。そりゃご苦労になるわねー」

肉屋のふくよか眼鏡のオバチャンは、大体こんな具合である。
豚牛の合い挽きの挽き肉と、豚バラ肉を等々注文する楓之助少年。常連で可愛がられているからこそ、コロッケをオマケで貰う展開は定番である。

「らっしゃーい」
「おはようございますー」
「へい、はよう。元気にしてるな?……げっ、亜麻っちゃんも一緒やないかい。気付かなくてびっくったわー、図体でけーのにな。ビビらすなやー」
「………」
無言の亜麻っちゃんである。
この陽気で早口かつ口数が多い、鬼角の生えた若い八百屋はどうも楓之助少年を気に入っているらしく、楓之助が買いたい野菜を探しながら無意識に呟いていると、それを聞いて「おっ、こいつかー?」と言って即座に品質と状態が良い物を引っ張り出して手渡す程である。
上物な大根と長葱、キャベツである。
「わあ……いつもわざわざすみません。ありがとうございます」
「まーまー、礼はいいってのよ。ところで亜麻っちゃんが居るって事は、ずばり米袋だろ?」

さて、その事だが大当たりである。
八百屋の次に寄った米屋で一つ米30kgの袋を亜麻仔は2つ軽々担いでいた。
服装のダサさに図体のデカさ、そして南門付近の例の知名度が相まって非常に目立つ。
しかし力仕事だけなら大体出来る怪力担当は、ここで1番役に立つのである。
米屋の禿頭のオッチャンは
「女で力持ちでもよ、ウチの力自慢の女房が最近遂に腰壊しちまってな。しかしあの化け女は異常だよ。ババアになっても、さぞかしピンピンしてるに決まってら」
と米袋の会計時に楓之助に耳打ちの仕草をしながら言っていたのだった。
禿頭本人はコソコソのつもりだが、声量が常に大きい育ちのため亜麻仔には丸聞こえである。
しかしそれでも無視をしているのか、言語を理解できていないのか、彼女は反応せず無言である。

通り過ぎる通行人や店番達に一瞬注目を集めている亜麻仔は、相変わらずの無表情である。
もはや名物と化しているのだった。
隣を歩く少年はそれを内心気にはしつつも、毎度どうしようもないし運んでくれている感謝もあって引くに引けないのである。

「今日の昼はそぼろ丼とお漬物で、夜は冷凍されたブリを解凍して照り焼きにして、明日の朝は余った食パンでフレンチトーストにして……その昼は今日買った豚肉で──」
むしろボソボソと独り言をしつつ、飯作りに頭が一杯の楓之助少年である。怖いほど主夫をしていやがるのである。

2人が南門を出た後、軽々と米袋を持ち帰る亜麻仔を見た自警団の門番2人はヒソヒソ囁きあっていた。
「なあなあ、米袋女ってのはアイツか?」
そう呟く1人目の自警団員。
「ん?……ああ、1ヶ月ぶりの出没だな」
と2人の自警団員。
「あの力と図体だったら、ウチらでも十分使えんじゃないか?」と1人目の自警団員。
「やめとけやめとけ。顔見りゃ、あの面は怠け者で間違いないぞ」と否定する2人目の自警団員。
「あー、おめーが言うなら間違いなさそうだな」
その意見に賛同する1人目の自警団員。
己の勘だけで判断した、2人目の自警団員の意見は見事的中である。
どうやら自警団の間では「米袋女」として注目されているらしい。

60kgを軽々と息を切らさず余裕で歩く正真正銘の化け女は、階段坂を登っていても無の表情である。
「重たいのに、毎回ありがとうございますね」
「………」
「ああ、亜麻仔さんよりも全然軽いのに、手が痺れて来ちゃいました……うわわわ」
とうの昔に廃止された、古いバス停の屋根付きベンチで1回座り、例のコロッケを食べる事にした。
袋を持っていた少年の両方の手のひらは、真っ赤っかである。
商店街から家まで徒歩20分かかり、しかも帰りは上がり坂が多いため、楓之助少年にとっては結構酷なのだ。
亜麻仔は米袋を地面に下ろして、コロッケ一つをパクリと、いつの間にか食べ尽くしていた。

現在、12時半過ぎである。
家の目の前に着いた時には、ちょうど隣人のタケ婆さんが地面の葉を箒で掃いていた。
「タケさん、こんにちはー」
「あら、家に居ないと思ったら、やっぱり買い物だったんだね?」
「はい、今日と明日の食材と、お米を買いにです」
「まあまあ、お疲れさんねー。けど亜麻仔さんや、毎度思うけど米袋2個持っているのは少々目立ち過ぎじゃないかしら?」
変わらず無の表情をしながら60kgを持っている亜麻仔を見て、苦笑しながらタケ婆さんは言ったが実際注目を集めているのは事実である。
「……」
返す言葉が思い浮かばないのか、はたまた声を発する事が出来ないのか、一生木偶の坊のように無言の亜麻仔。
「ですが亜麻仔さんには、こうして運んでくれるのにとても助かっていますから……」
少し的外れなフォローにも聞こえるぞ少年。
すると、ニャーニャー鳴き声が家から上がってきたかと思うと、三毛猫三姉妹の内の長女が塀を飛び上がって来た。ちなみに彼女が1番歳を取っている。
「あら、あなた達が帰ってきて皆が騒ぎ出したね。ご飯ご飯って。早く急ぎなさい」
両手が塞がっている楓之助と亜麻仔の代わりに、門を開けてくれた。
「ありゃりゃ……すみません、また後で」
やる事の多さに急ぐ楓之助、その後をノロノロ動く亜麻仔、そして昼食を済ましていて自分の家と猫屋敷の前の掃き掃除を再開するタケ婆さん。
楓之助だけ少々窮屈そうにしか見えない図である。

亜麻仔は米袋を置き場にドサッと置いて、部屋着にノロノロ着替えて赤半纏を着用した。
そして、ちゃぶ台の上に置かれたヤカンを"グビグビグビ……"と直飲みしたかと思うと、その体を畳にドシンと倒して寝っ転がった。
その衝撃と風圧に、近くで丸くなっていたハチワレ猫が一瞬ビクリと驚く。
楓之助は買った食材を台所へ置き、急いでキャットフードの袋を取り出して縁側へ向かってご飯をあげ、頭に巻いていた手拭いと帽子を外すと三ツ耳が露になった。そしてジャンパーを脱ぎ、エプロンを付けて台所へ向かった。
赤半纏は相変わらず身動きを取る様子は無い。
手伝え。
換気扇がゴウゴウ音を立てる中で、卵を割ってボウルで溶いて、肉屋の挽き肉をフライパンで焼いて調味料を手に取っての動作を慌ただしく、かつ丁寧に調理していた。

平たいドンブリに、熱々のご飯、その上に刻み海苔、そして甘めで醤油の味付けがされた肉そぼろに、味付け薄めの卵そぼろタップリの組み合わせである。これが本当に凄くウメェんだ。

白菜の漬物を小鉢に添え、朝と同じようにちゃぶ台の上にお盆が置かれた。
そしてゆっくり身体を起こし、座布団にノロノロ座り直す赤半纏。
現在、13時10分過ぎである。
さっき欠伸をしていた猫達が、ちゃぶ台の前に近寄っては昼寝をしだしていた。
そんな猫と亜麻仔の様子に対し、このハードなスケジュールに脱力しそうな楓之助である。

「すっかり疲れちゃいました……いただきますー」

息を少々切らし、手を合わせながら言う楓之助少年。さて、亜麻仔はドンブリに視線を合わせているのか俯いている。そのままいつものように何も言わず、ただ飯にガッつくだろうと思われた。

「……ありがと」


喋りやがったのである。
ボソボソとした声だったが。
もはや明日から西から日が昇る奇跡である。
そして何事も無かったかのように、スプーンを手に取って大盛りのそぼろ丼をガツガツと食らう亜麻仔。
一応、彼女の好物の一つでもある。
ちなみに筆者もそぼろ丼は大好物である。

「…………どういたしまして、です」

今までお礼を言われた覚えが無かった事を思い出し、つい意外に感じて目をぱちくりとした後、楓之助は言葉を返した。返した言葉の語尾に余計な物が付いたのは動揺からだろうか。
なぜ今更お礼を言い出したのか、本人に聞いても多分答えが帰ってくる事は無いだろう。
ただそういう気分なだけだったのか、はたまた"今まで声にならずとも実は言っていて、そしてたまたま偶発的に声が出せてしまった"のか、それを確かめる術は無い。
取り敢えず少年はスプーンを手に取り、自らが作ったそぼろ丼を口に運んだのだった。

砂糖のほのかな甘みと醤油の味付けに、ゴロゴロとした肉とふんわりとした卵の食感、そして海苔とご飯の組み合わせがとても良く合う。

家や庭に居る猫達は、亜麻仔が"お礼を言う"という有り得ない出来事に、目を向ける事も理解する事も無かった。
猫だから当たり前である。


~続く保証は無い~

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